私は子どもの頃から楽器を習ったこともなく、生来音楽的素養のないもので、音楽的な賜物はないものと思っていた。青年期には人並みに“ロックやポップスを聴いた時期(ビートルズは解散しており、“プログレッシブロック”や“グラムロック”が全盛だった)はあったが、クラシック音楽を鑑賞することはほとんどなかった。小中学校で音楽の時間にクラシックを聞いた(聞かされた)ぐらいしか、記憶にはない。そう、そう、ほんのいっとき、ベルリンフィルのベートーベンの交響曲のレコードを購入して聞いていたことがあったっけ。大学に入ってからは、音楽よりも映画の世界に入っていった。しかし本来音楽とは、“音を楽しむ”と書く。だから、たとえ音痴であろうと、楽器が弾けなくっても、楽しむことは出来るのだ。
そんな私がクラシックを好んで聞くようになったのは、うつ症状が現われたことで、生活自体を変えようとしたことに始まる。今までしてこなかったことを始めようと思ったのである。そして実行したのが、病室を切り花で飾ることとクラシック音楽を聞くことだった。思いつきのような軽い発想だったが、私なりには必死だった。何とかして変わろう、同じ生活を繰り返してはいけないと思ったのだった。そしてそれは、私の病状にも良かったように思える。
しかしクラシックを聞こうと思っても、ほとんど何も知らないから、何を聞いて良いのかも分からなかった。そこでとりあえず有名な作曲家のベスト盤のようなものを思いつくところから聞いていった。ベートーベン、バッハ、モーツァルト、チャイコフスキー、ドボルザーク、ブラームス、シベリウス、ショパン等々。
最初はそれらの作曲家の一人に過ぎなかった。特に思い入れはなかったし、“知識”もなかった。若い頃に『アマデウス』という映画は観ており、好きな映画ではあったが、彼の曲を聞いてみようと思うほどではなかった。『トルコ行進曲』や『アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク』は知ってはいたが、モーツァルトの曲だとは知らなかったほどだ。
昨今、モーツァルトの曲には、「癒しの効果がある」「頭が良くなる」とか、中には「美肌や便秘にも良い」等、本当に様々な効用があると言われている。これらのことを特集した番組まであったりするほど。また、昨年は生誕250年ということで、日本だけでなく世界中が大騒ぎだった。モーツァルトフィーバーは、年々ヒートアップしているようだ。彼の音楽がいかに人々の心を捉えているかが分かる。
暗さや重苦しさを感じさせるものは正直言ってしんどかった。入院中には時間はいくらでもあったから、気に入ったものは好きなだけ繰り返し聞くことが出来た。ショパンのピアノ曲やバッハの宗教曲にも惹かれたが、ある時期からは他の作曲家の曲は全く聞かなくなった。それこそ、“モーツァルト一直線”となった。どこが良かったのか、何が心を捉えたのか、専門的知識はないので、言葉で表現するのは非常に困難である。ただ「心が落ち着いた」としか言いようがない。
マイベストは、“弦楽三重奏のためのディヴェルティメント変ホ長調 K.563”。中でも、その第一楽章アレグロ。妻からも呆れられるほどだが、何度聞いても飽きない、というか一日中、何日も繰り返し聞き続けた。
クラシック鑑賞の奥の深さ(いや“たち”の悪さかもしれない)に、演奏者ごとの聞き比べがある。誰が演奏しているかで違ってくるのだ。これが興じると、更に同じ演奏者でも、何時の演奏か、何時の録音か、はたまた同じオーケストラでも指揮は誰か、といったことにまでこだわってしまう。
この“K.563”を、最初は別な演奏者(アルテュール・グリュミオー)のもので聞いたが、これほど熱中はしなかった。しかしヨーヨー・マ(チェロ)、ギドン・クレメール(ヴァイオリン)、キム・カシュカシュアン(ヴィオラ)演奏のものを聞いたら、抜けられなくなった。三人とも世界的に有名な名手だそうで(私はヨーヨー・マしか知らなかった)、「夢の競演」と、ライナーノートには書かれている。何より演奏者自身が楽しそうなのだ。演奏するのが楽しくて楽しくてしかたがない、そしてこのモーツァルトの曲自体を楽しむ三人の“モーツァルティアン”になっているように感じられるのだ。
モーツァルトはその35年という短い生涯の中で、600曲以上を作曲している。それもオペラからピアノ曲、ヴァイオリン曲、弦楽奏曲、交響曲等に至るまで、幅広いジャンルで作曲し、そのどれもが名曲ばかり。その原点が、この三人の演奏に集約されているように思える。聞くものの心を安らがせ、心地よくし、何よりも音楽の楽しさを堪能させてくれるモーツァルト。一度はまると、もう“病みつき”。私も、もうどこに出しても恥ずかしくない(恥ずかしい?)“モーツァルティアン”になってしまったようだ。
最近のコメント