カテゴリー「モーツァルト」の3件の投稿

モーツァルトとウィンナワルツ

ホッと一息入れられる時となった。

あのウィーンフィルのコンサートマスターの弦楽四重奏、“アンサンブル・ウィーン”と銘打っていた。通常弦楽四重奏は、ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロであるが、チェロでなく、コントラバスの編成。

前半はモーツァルト、『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』とオペラ曲が続き、地元出身のピアニスト門脇加江子さんを交えての『ピアノ協奏曲第12番』。

これだけでも大満足なのだが、やはりウィーンフィルと言えばウィンナワルツ。後半は、華麗なるウィンナワルツ大会。モーツァルトめあてだったが、ウィンナワルツの魅力やその素晴らしさに目覚めさせられた。前半の座っての演奏スタイル(コントラバスは除いて)を変えて、後半は、4人ともが立っての演奏だった。リズムを取りながら、ダイナッミクで躍動感たっぷりの演奏を見て(聞いて)、ウィンナワルツって踊りながらの演奏なんだと気づかされた。

いつも手軽な値段(全額チャリティーだという)で、本場の生の音に接する機会を与えてくれる主催者のドコモ四国に感謝(500円ですよ、500円!本当によいのかなと思ってしまうほど)。本物の生の演奏を聴くことが、どれだけ心と体に良いかを満喫しながら、家路に着いた。

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昨年の週報から(2006年7月30日)

委ねきる自信

“自信”って何だろうか。「あの人は自信家だから」なんて言う時は、良い意味ではなくプライドが高いことなどを批判する思いがそこにはある。しかし“自信”を持つことは果たして悪いことなのだろうか。

先日、モーツァルトの特集のテレビ番組の中で、一人のジャズピアニストが、「モーツァルトの音楽は自信に満ち溢れている。そしてそれは自分の作った旋律を“音楽”の力に委ねきっていることによる自信だ」と言っていた。モーツァルトの音楽の魅力は、単純で平易な旋律(“ドミソ”の和音が基本)による奥の深さにあるとよく言われる。親しみ易く馴染み深い音からくる普遍性であろうか。そのピアニストは、「臆面もなく、単純な音を連ねている。自分はこんなことも出来るのだという主張がモーツァルトにはない。音楽を信頼し、その音に委ねきるという意味での自信が感じられる」と言う。

私たちは自信を持ってよいのだ。それは自分に大きな力があることを誇示することでなく、全知全能なる神が私たちと共にいて下さることによる自信、神に委ねきることの安心感に基づく力こそが自信なのだ。本当の意味での自信とはそのようなものであろう。絶対に裏切ることなく、私たちを守って下さる神さまに委ねきること、それこそが信仰ではないか。これは自信がないと出来ないことである。私たち信仰者は、神さまを信頼してよいのだ。

「主は我が牧者なり、我乏しきことあらじ。主は我をみどりの野に伏させ、憩いの汀に伴いたもう。主は我が魂を活かし、御名のゆえをもて、我を正しき道に導きたもう。たとい我、死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れじ。汝、我と共にいませばなり。」 (旧約聖書 詩篇23編1~4節 a 文語訳)

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モーツァルティアン

私は子どもの頃から楽器を習ったこともなく、生来音楽的素養のないもので、音楽的な賜物はないものと思っていた。青年期には人並みに“ロックやポップスを聴いた時期(ビートルズは解散しており、“プログレッシブロック”や“グラムロック”が全盛だった)はあったが、クラシック音楽を鑑賞することはほとんどなかった。小中学校で音楽の時間にクラシックを聞いた(聞かされた)ぐらいしか、記憶にはない。そう、そう、ほんのいっとき、ベルリンフィルのベートーベンの交響曲のレコードを購入して聞いていたことがあったっけ。大学に入ってからは、音楽よりも映画の世界に入っていった。しかし本来音楽とは、“音を楽しむ”と書く。だから、たとえ音痴であろうと、楽器が弾けなくっても、楽しむことは出来るのだ。

そんな私がクラシックを好んで聞くようになったのは、うつ症状が現われたことで、生活自体を変えようとしたことに始まる。今までしてこなかったことを始めようと思ったのである。そして実行したのが、病室を切り花で飾ることとクラシック音楽を聞くことだった。思いつきのような軽い発想だったが、私なりには必死だった。何とかして変わろう、同じ生活を繰り返してはいけないと思ったのだった。そしてそれは、私の病状にも良かったように思える。

しかしクラシックを聞こうと思っても、ほとんど何も知らないから、何を聞いて良いのかも分からなかった。そこでとりあえず有名な作曲家のベスト盤のようなものを思いつくところから聞いていった。ベートーベン、バッハ、モーツァルト、チャイコフスキー、ドボルザーク、ブラームス、シベリウス、ショパン等々。

最初はそれらの作曲家の一人に過ぎなかった。特に思い入れはなかったし、“知識”もなかった。若い頃に『アマデウス』という映画は観ており、好きな映画ではあったが、彼の曲を聞いてみようと思うほどではなかった。『トルコ行進曲』や『アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク』は知ってはいたが、モーツァルトの曲だとは知らなかったほどだ。

昨今、モーツァルトの曲には、「癒しの効果がある」「頭が良くなる」とか、中には「美肌や便秘にも良い」等、本当に様々な効用があると言われている。これらのことを特集した番組まであったりするほど。また、昨年は生誕250年ということで、日本だけでなく世界中が大騒ぎだった。モーツァルトフィーバーは、年々ヒートアップしているようだ。彼の音楽がいかに人々の心を捉えているかが分かる。

暗さや重苦しさを感じさせるものは正直言ってしんどかった。入院中には時間はいくらでもあったから、気に入ったものは好きなだけ繰り返し聞くことが出来た。ショパンのピアノ曲やバッハの宗教曲にも惹かれたが、ある時期からは他の作曲家の曲は全く聞かなくなった。それこそ、“モーツァルト一直線”となった。どこが良かったのか、何が心を捉えたのか、専門的知識はないので、言葉で表現するのは非常に困難である。ただ「心が落ち着いた」としか言いようがない。

マイベストは、“弦楽三重奏のためのディヴェルティメント変ホ長調 K.563”。中でも、その第一楽章アレグロ。妻からも呆れられるほどだが、何度聞いても飽きない、というか一日中、何日も繰り返し聞き続けた。

クラシック鑑賞の奥の深さ(いや“たち”の悪さかもしれない)に、演奏者ごとの聞き比べがある。誰が演奏しているかで違ってくるのだ。これが興じると、更に同じ演奏者でも、何時の演奏か、何時の録音か、はたまた同じオーケストラでも指揮は誰か、といったことにまでこだわってしまう。

この“K.563”を、最初は別な演奏者(アルテュール・グリュミオー)のもので聞いたが、これほど熱中はしなかった。しかしヨーヨー・マ(チェロ)、ギドン・クレメール(ヴァイオリン)、キム・カシュカシュアン(ヴィオラ)演奏のものを聞いたら、抜けられなくなった。三人とも世界的に有名な名手だそうで(私はヨーヨー・マしか知らなかった)、「夢の競演」と、ライナーノートには書かれている。何より演奏者自身が楽しそうなのだ。演奏するのが楽しくて楽しくてしかたがない、そしてこのモーツァルトの曲自体を楽しむ三人の“モーツァルティアン”になっているように感じられるのだ。

モーツァルトはその35年という短い生涯の中で、600曲以上を作曲している。それもオペラからピアノ曲、ヴァイオリン曲、弦楽奏曲、交響曲等に至るまで、幅広いジャンルで作曲し、そのどれもが名曲ばかり。その原点が、この三人の演奏に集約されているように思える。聞くものの心を安らがせ、心地よくし、何よりも音楽の楽しさを堪能させてくれるモーツァルト。一度はまると、もう“病みつき”。私も、もうどこに出しても恥ずかしくない(恥ずかしい?)“モーツァルティアン”になってしまったようだ。

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