カテゴリー「伊勢崎教会週報から」の60件の投稿

アドベント(待降節)

本日からアドベントに入りました。アドベントは、イエスさまのご降誕をお祝いするクリスマスを待ち望む期間ですから、楽しみに待てば良いのですが、イエスさまの十字架を信じる者にとっては、ただ漫然とその日を待っておればよいのでないことは言うまでもないでしょう。

アドベントの概念は教派によって異なります。西方教会(ローマ・カトリック、聖公会、プロテスタント)では、教会の一年はアドベントから始まると捉え、1130日に最も近い主日から12月24日のイブまでの約4週間を、その期間と定めています。その一方、復活大祭(イースター)と五旬祭(ペンテコステ)を教会暦の節目とする東方教会(正教会)では、クリスマスの前後の主日に特別な一連の祭りは行ないますが、アドベントの概念自体がありません。

資料によると、5世紀のフランスの司教ペルペトゥスが、1111日からクリスマスまで、週3回の断食を命じたのが、アドベントをどのように守ったかの最古の記録として残っています。正教会が、16日の公現祭(イエス・キリストの洗礼の日 但し西方教会では、東方の占星術の学者たちの訪問を記念する日としている)に洗礼を受ける予定の者が、断食と悔い改めを、洗礼の準備として行なっていたことが西方に伝わり、西方教会においても、断食と悔い改めがクリスマス前の習慣となっていったようです。現在は西方教会においては、教派の教えとして断食が行われることはないようですが、カトリック、聖公会、ルター派の教会では、今でも祭服や祭壇にかける布には、悔い改めを意味する紫色のモノが用いられます。

私たちバプテスト教会では、教会歴を柔軟に捉えることからも、通常断食を行なうことはありませんが、私たちの罪のために十字架に架かられたイエスさまを心の王座にお迎えするためには、自分自身の罪を深く心に受け止め、悔い改めの心の備えをすることは、クリスマスを迎えるにあたって必要なことです。そのための断食なら、神さまも、喜ばれるかもしれませんね。

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やなせたかし

『アンパンマン』の作者で、香美市出身(生まれは東京都)の漫画家やなせたかしさんが、今月13日に召天された。ご本人は死期を悟られていたようで、今年の6月には「来 年までに俺は死ぬんだよね。朝起きるたびに少しずつ体が衰弱しているのが分かるんだよね」と語っておられた。2011年頃に膀胱がんが判明し、肝臓にも転移し、尿道結石など数々の病に侵されながらも創作意欲は衰えず、94歳の現役として活躍されていた。

『アンパンマン』は、公開当初は、そのテーマの難しさや顔を食べさせるという設定が大人たちには不評で、子どもたちには受けないと酷評されたそうだが、子どもたちの間からは評価され、国民的アニメとなり、知らない人はないほどの作品となった。

キリスト者であったやなせさんは、「本当の正義はミサイルを発射することでなく、飢えた人に食べ物を与えること」と発言され、また別な機会には「正しいことをする場合、必ず報いられるかというと、そんなことはなくて、逆に傷ついてしまうこともある」とも語られていた。アンパンマンの姿の“闘い”方からは、イエス・キリストの十字 架が見えてくる。

実の弟さんを戦争で亡くされ、自らも出征中に、食料が無く空腹の苦しさを体験されたことから「正義の味方だったら、まず食べさせて飢えを助けること」との考えに行きつき、「世界最弱のヒーロー」(本人談)が生み出された。

最初の絵本『あんぱんまん』のあとがきには「空腹の者に顔の一部を与えることで悪者と戦う力が落ちると分かっていても、目の前の人を見捨てることはしない。かつそれでありながら、たとえどんな敵が相手でも戦いも放棄しない。」とある。キリストを信じる者の生き方が表われている。

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『バイカル湖』

 モンゴル国境に近い中央シベリアのタイガに広がるバイカル湖は、いろんな意味で興味深い湖です。面積は世界7番 目ですが、最大水深が1741mと世界で最も深いことから、その貯水量は23,000立法㍍で、世界中の淡水の約20%を有す ると言われています。

 また約3,000万年前に海から孤立し、その後長い期間をかけて徐々に淡水化していった世界最古の湖の一つでもあり、生態系の面においてもガラパゴス諸島と並ぶ“生物進化の博物館”“生態学の 宝庫”とも称されています。そのた めもあってか、聖なる場所と捉えられ、古代から礼拝地と されてきました。

 バイカル湖が人々を魅了する最大の特徴は、40㍍を超え る世界最高の透明度でしょう。ここは、流 れ込む河川は33 6本ありますが、ここから流れ出る川はアンガラ川一本で す。流入と流出の差が大きいバイカル湖ですが、水晶のような純度を保つことの出来る最大の要因は、小さな生物の存 在にあるというのです。

 その一つが、カイアシ類の小エビのバイカルエピシュー ラです。肉眼では確認できない程の体長約 1㍉のこのエピシューラは、極小の藻類を食して、バクテリアをろ過する特性を持っています。そのも のバイカル湖の純度を保つ自 然のフィルターの働きをしているのです。そのようなごく 小さな生命体であるエピシューラが、膨大な貯水量の湖の透明度を維持させているのは、とても示唆的に思えます。

 私たちの心の中にも、様々なものが流れ込んできます。偽りや悪に流されてしまうこともあります。そしてそれを浄 化させる力を、私たちは持ち合わせていません。それをして下さるのは、ただイエスさまだけです。

 イエスさまの「からし種一粒の信仰があれば」(マタイ17:20)との言葉が思い起こされます。 体長1㍉のエピ シューラがバイカル湖の純度を保つように、イエスさまへのからし種一粒の信仰が、私たちを日々新たにしてくれるのではないでしょうか。

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献身者を支える

本日の礼拝は神学校週間礼拝です。先週のアピールにもあったように、今年度から名称が「神学校献金(神学生奨学金献金)」となり、給付の対象が西南学院大神学コースだけでなく、東京と九州のバプテスト神学校の牧師コースの神学生に広げられました。両バプテスト神学校の発足の経緯など、様々な事情があり、両バプテスト神学校の神学生は、奨学金の対象になっていなかったのですが、こうした連合立等の神学校で伝道者としての道の歩みの備えをされている方にまで広がったことは感謝なことです。

他の教派のことは完全には把握していませんが、全寮制で卒業後には、その教派の牧師等になることが義務付けられている学校はあるようには聞いています。しかし、そこまでの規定路線を敷くのでなく、神学生の授業料(1種奨学金)だけでなく、生活上の奨学金(2種奨学金)までを給付(貸与)する教派はそうは多くない、いや珍しいのかもしれません。

両バプテスト神学校と西南大神学部には、ランクの差はありません。西南大神学部の良さは勿論ありますが、そのマイナス面もありますし、働きながら夜間に通ったり、DVDを観ながら、独りで学ぶには、相当の根気や克己心が求められると思います。ただ、西南の神学生の場合、勤めを退職し、福岡に移住しての学びですから、経済的には厳しくなるという事情は考慮されねばなりません。家族を養いながら学んでおられる方もおられますから、アルバイトのために勉学に影響が出ることもあり得るからです。

西南大神学部に来られる方の最近の傾向としては、定年退職後の方、女性の方(今年度学部入学者は5名中4)、外国人(学部4年にミャンマー人の女性)が増えていることです。

いつも申し上げているように、献身者の在り方は牧師・宣教師になることだけではありません。しかし、召命を受けて伝道者としての奉仕の道は甘くはありません。私たち一人ひとりが神さまから召命を受けていることを真摯に受け止め祈り求めることと併せて、バプテストの神学校の神学生を覚え祈り、支えることも、神さまへの感謝と大切な応答であります。

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恐れと自己防衛

「いい加減目覚めなさい」「イメージできる?」のセリフが流行した天海祐希主演の『女王の教室』を観た。相当へヴィーな内容のドラマではあったが、愛と希望に燃えた一人の女教師が悪魔のような教師に変貌していくさまや、女王様キャラがピッタリの主演の天海祐希の熱演もあって、8年前の放映時にはかなり話題になったのを記憶している。でも、現実離れしている点もあり、この教師を通して実践される教育論には問題点もあるから、内容を能天気に賞賛する気持ちはない。

ただ、このドラマの子どもたちの姿には、共感というか、元々抱いていた思いを確信させてくれるだけのものがあった。子どもに限らず人を縛り付け、人と人を分断するのは、やはり恐れだということだ。

人は自分に攻撃が向けられるのではないかと恐れると、その攻撃から自分を守るため自己防衛を図る。みんなわが身が可愛いから、そのためには嘘もつくし、友達を裏切ることさえする。攻撃は最大の防御というのは、スポーツの世界ではよく言われることだが、人と人との関係においての自己防衛は、周囲の者に疑心暗鬼な思いや恐怖心を植え付けることになり、当の相手には十分な攻撃となってしまうことが多い。

 恐れは決して私たちを守ってはくれない。当面の攻撃をかわすことにはなるかもしれないが、攻撃は様々な形で迫ってくることから、常に防衛の手段を講じ続けることが求められる。また、次にいつ新たな攻撃の対象になるかとの恐れに脅え続けねばならず、自分自身の恐怖という攻撃からはずっとさらされ続けことになる。恐れは更なる恐れを生み出し、その負のスパイラルは永遠に続くことになりかねない。

 その悪循環から私たちを救ってくれるもの、そこから解放し守ってくれるのは、相手への愛と信頼しかない。そのことを身をもって示してくれたのこそが、イエスの十字架なのである。

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「わが恵み、汝に足れり」

精神科医の工藤信夫氏は、『こころの風景』(いのちのことば社P6872)の中で、一人の患者の事例を紹介しておられる。この人は、診察室にやって来た頃は、目に光はなく、暗い表情で家族の確執や厳格な父親の下で息をひそめるように生きてきたことを、弱々しい声で語っていた。そんな人が、ある時突然次のように語ったという。

「先生、不幸や不満ばかり言っていましたが、この間、久しぶりに祖父母を訪れ、父や母の生い立ちや結婚のいきさつなどいろいろ聞きました。そしたら、父や母にもそれぞれ苦労があったこと、またお父さんはああいう形でしか、私に対するいたわりを表せない人だとわかりました。(中略)このごろは私も言いたいことを言えますし、やっと家庭らしい家庭になりました。先生、私は本当は幸せだったのです。」こうしてこの人の家庭には笑顔が戻ったそうだ。

 人間の幸不幸を、“気の持ちよう”という言葉で片付けようというのではない。しかし人は、自分の不遇や運の悪さにばかり目をやり、自分を“悲劇のヒロイン(ヒーロー)”にしてしまうものだ。与えられているものよりも無いものの方ばかりに意識が行き、不満や愚痴をこぼし、“足れり”ということを知らない。いや知ろうとしないのではないか。私たちは、本当に不幸なのだろうか。

 パウロは、自分の祈りに対する「わが恵み、汝に足れり」(Ⅱコリント12:9)という主からの答えを、私たちに残してくれている。主は、私たちの人生を善き方向に導き、私たちが生きていくのに必要な全てのものを与え満たして下さるお方なのだ。そのために、ご自身の独り子なるイエスさままで贈って下さり、そのイエスさまは、私たち身代わりとなって死んで下さったのだ。

その事に立ち帰ると、あまりに当然で意識さえしなかった太陽の光や空気、家や家族、教会等、全てのものが現に与えられていることを知り、不満より感謝する気持ちが起こされる。詩編にも「あなたは善なる方、すべてを善とする方」(119:68)とある。この言葉が信じるに足るものであり、自分が満たされていることに気付くならば、私たちの毎日は大いに変わるのではないだろうか。

人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ。」ドストエフスキー『悪霊』

         

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汝の敵を愛せよ

「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようにやりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。

どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。

だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。

真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。

国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。

しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。そうすれば、私たちの勝利は二重の勝利となろう」(マーティン・ルーサー・キング「汝の敵を愛せよ」、新教出版社、1965年、79P)

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「平和への誓い」

昨年の8月6日に広島で行われた平和記念式典での
こども代表による「平和への誓い」

「今年、311日、東日本では、大震災によって、たくさんの人が命を失いました。今でも行方がわからない人がたくさんいます。多くの人が大切な家族や友だちを失い、津波で何もかもなくなった被災地の姿に、わたしたちは言葉を失い、悲しく、胸が苦しくなりました。

66年前の今日、午前815分、広島に原子爆弾が投下されました。爆風が何もかも吹き飛ばし、炎がすべてを焼き尽くし、人々の当たり前の生活と、多くの尊い命が一瞬にして奪われました。

どんなに苦しかったでしょう。 
どんなにつらかったでしょう。
どんなにくやしかったでしょう。

わたしたち一人一人は、だれもがみな大切な存在です。それなのに、どうして人間は、たくさんの命を犠牲にして戦争をするのでしょうか。戦争を始めるのは人間です。人間の力で起こさないようにできるはずです。

悲しみに満ちた広島に草木が芽生えました。人々は、平和への強い思いをもって、復興に向けて歩みはじめました。未来をつくるのは人間です。

喜びや悲しみを分かち合い、あきらめないで進めば、必ず夢や希望が生まれます。

わたしたちは、人間の力を信じています。人間は、相手を思いやり、支え合うことができます。人間は、互いに理解し合い、平和の大切さを伝え合うことができます。わたしたちは、今を生きる人間として、夢と希望があふれる未来をつくるために、行動していくことを誓います。」

201186日  

こども代表 広島市立三篠小学校6年 福原真拓

            広島市立己斐小学校6年 藤田菜々歌

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明日の礼拝へのご案内

高知伊勢崎キリスト教会

2012年7月15日 主日礼拝

午前10時半~12時

宣教「神の箱とご神体」

聖書 旧約聖書
    サムエル記下6章1~23節

牧師  平林  稔

契約の箱とも呼ばれ、モーセがシナイ山で与えられた十戒が刻まれた石板が収められた箱のことです。出エジプト251016節には、この箱についての規定(律法)が記されています。

「アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。」(出エジプト記251016節)

ここには、箱の作成の指示だけでなく、担ぐための棒についても規定されています。ちなみに、“アンマ”は長さの単位で、「ひじから中指の先までの長さで、約45センチ」と言われていますから、この箱のサイズは、縦112.5センチ×横67.5センチ×高さ67.5センチとなり、決して小さなものではないことが分かります。内外とも、純金で覆うのでは、重さはどうなのでしょうか。

この箱の運搬に関しての律法は、民数記4章に記述があります。

「アロンとその子らが、宿営の移動に当たって、聖所とそのすべての聖なる祭具を覆い終わった後、ケハトの子らが来て運搬に取りかかる。彼らが聖なるものに触れて死を招くことがあってはならない。臨在の幕屋からケハトの子らが運ぶべきものはこれらのものである。」(民数記415節)

サムエル記6章のこの話は、ウザが主の怒りに触れて打たれ、命が絶たれたことから、“ウザ打ち”と言われる受け取り方の困難な箇所です。牛がよろめいたために、手を伸ばして神の箱が落ちないように守ったウザの命を、主はどうして奪われたのか、明日はそのことをご一緒に聖書から聞いていきましょう。

どなた様でも
ご自由に礼拝にお越し下さい。

 高知伊勢崎キリスト教会

  高知市伊勢崎町3-8

   ☎088-875-5983

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旧約聖書の勧め

キリスト教は、イエスをキリストと信じることが根幹にあるのだから、「旧約を読まなくてもよい」は極端としても、知らずしらずのうちに、「新約ばかりを読んでしまう」ことになりかねない。礼拝においても、旧約からの説教が極端に少ないことがありはしないか。

イエスをキリストであると直接的に記しているのは、新約聖書である。キリストの誕生が、キリストの十字架が、キリストの復活が記されているのは、新約聖書、中でも四つの福音書である。そして、大工のせがれのイエスを通して、神の贖いのわざが成し遂げられたことを表したのも、新約聖書のパウロの手紙等である。

紀元2世紀の小アジア出身の人であるマルキオンは、「旧約の神は、怒りの神で、嫉妬する神であり不完全だ。旧約の神が造った世界は苦しみに満ちており、そこには愛も恵みもない。一方、イエスの示した神こそが、真の神であり、慈しみの神だ」と唱え、キリスト教徒にとって、旧約は必要無いと考えた。そして、ルカによる福音書と使徒言行録とパウロの手紙のみを聖書とした。

これがマルキオンを師とするマルキオン主義である。彼の誤りは、愛と裁きを相反するものと捉えたことである。愛は単なる優しさではないし、厳しさのない放任でもない。愛には、罪や間違いを正す厳しさがなければならない。

それを記してくれているのが、教えてくれるのが旧約聖書だと思う。だから、旧約を読まない信仰は、薄っぺらなものになりかねない。「優しさという甘え」の中に埋没しかねない。自分に合うものだけをえり好みする信仰になりかねない。

イエスさまを通してみ業を成し遂げて下さった神さまは、そんな薄っぺらい方であろうはずがない。その世界を知るためにも、私たちは旧約聖書を読む必要があると信じる。

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