カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の75件の投稿

ふぞろいの林檎たち

 山田太一のドラマを続けてビデオで鑑賞。小説家としても、『異人たちとの夏』で山本周五郎賞を受賞し、演劇脚本作も多いが、使命感を持ってテレビでドラマ制作をして来たことを感じさせてくれる日本の代表的脚本家だろう。向田邦子・倉本聰と“シナリオライター御三家”と評されたりもした。表題は、彼の作風を象徴する代表的ドラマのタイトル。他には、出世作となった『岸辺のアルバム』、『男たちの旅路』『想い出づくり』、大河ドラマ『獅子の時代』等がある。

 山田の作品は、器用には生きられない“普通”の人々の不器用な生き方を温かく見つめることで、人間存在を掘り下げたドラマが多い。登場人物が“普通”の人々なだけに、起伏は少なく、淡々とストーリーが展開するのが特徴。

 今回鑑賞したのは、連続ドラマとしてはおよそ12年ぶりの2009年度作『ありふれた奇跡』と、20075月に放送された単発ドラマの『星ひとつの夜』。『ありふれた奇跡』は、駅のホームで不審な男を見かけたことで偶然出会ったそれまでは見ず知らずだった二人の男女を主軸に、その不審な男とそれぞれの家族の葛藤する姿を描いたもの。主人公の二人には、互いに人に言えない心の傷があったが、そのことも通して、二人の距離は縮まっていく…。殺伐とした都会で孤独に生きる人間が、不器用ながらに交流し、心を開くことで希望を見出していく姿は観る者の心を打つ。主演の二人は、加瀬亮と仲間由紀恵、共演に陣内孝則。

『星ひとつの夜』は、コンサートホールの清掃員が、50万円程の現金入りの忘れ物のコートを見つけ、持ち主の青年に届けたことで物語は始まる。清掃員には殺人で11年間刑務所に服役した過去があり、青年の方は、パソコンを使った株取引で90億もの資金を動かすデイトレーダーだった…。家族や友人との関わりが稀薄になった現代人にとって、人と関わることとは何か、他人を理解し受け入れることの困難さを考えさせられる。出演は、清掃員に渡辺謙、青年役は玉木宏。

無縁社会と言われる現代日本で、要領悪さを呈し、時には無様にも見えながら懸命に生きる人間を通して、一筋の光明と希望を与えてくれるいずれも秀逸な作品だった。自分も含め、聖書の人物もみんな“ふぞろいの林檎たち”なのかもしれない。生き難い人間社会を生きていく上に、少しは役立ったように思えた。

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ご無沙汰しています

昨年の8月以来、記事を書かないまま今日にいたりました。

この間にあったことをここに全部記すことは到底出来ません。

それは差し障りがあるからではなく、あまりに込み入って、私たち夫婦にとってはあまりに大きな出来事が連続したからです。

妻の入院、義母の急死、そして私も精神的にまいってしまい、9年前に入院した福岡の病院に11月から2月の8日まで入院しました。

お陰さまで、退院後に復職し、何とか仕事はしていますが、まだまだ本調子とは言えません。

ブログの方も、ボチボチ書き始めようとは思ってはいます。

よろしくお願いします。

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華やかさの陰で

シリアで日本人の女性ジャーナリストが

殺害された。

同行の記者に彼女の語っていた言葉は、

私たちの心を刺す。

「華やかな五輪の陰で、

砲弾の飛び交う中で暮らす

シリアの人々の現状を伝えたい」

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クリスチャンよ、町に出でよ

大飯原発再稼働!

何をかいわんやである。

こんな状況で、まだ原発に頼ろうとするのか。

国民の少なくとも8割 いや、それ以上が
再稼働反対もしくは不安を感じているのに、

野田首相は再稼働の方針を表明した。

一昨日の電力会社の総会での、株主提案の
脱原発提案の否決は“想定内”の事としても、

大飯の1,2号機の下を走っている破砕帯の問題
に関しての調査の要望が出ていることにも拘わらず、
そのことには、関西電力は何も触れなかった。

更に、中部電力は、あの浜岡さえ再稼働したいというのだ。

国と電力会社は、夏のピーク時の電力不足解消のため、国民の生活が守られるため
と言っているが、彼ら思惑が国民のことを考えてのことでないことは明らか。

彼らにとって、国民生活がどうなるかなどは二の次、三の次
彼らの考えてることは、

無駄な金を使いたくない

これまでの嘘と出鱈目を追及されたくない

核武装のためにも、原子力政策は維持したい 等々

オスプレイ配備!

こちらもとんでもない!

4月にはモロッコで墜落している・・・

そんな危険な軍用機、正式名はV-22と言い、
ヘリコプターのように垂直離着陸やホバリング(空中停止)も
出来る“夢のような飛行機”との触れこみ・・・

ガッテン、そんなに甘くはない。

これまでも、事故を繰り返し、米軍は性能上の問題はクリアした
とは言っているが、試作機時代を含め、これまでに8回の事故を
起こしており、乗員の計36名が死亡している。

今年に入ってからも、4月にモロッコで墜落し、2名死亡、2名が重傷、6月にはフロリダでも墜落し、乗員5名が負傷している。

発表によると、乗員以外の負傷者等の情報は得ていないが、墜落場所によって、民間人が巻き込まれることはいくらでも考えられる。

そんな“夢のような飛行機”を、沖縄と岩国に配備しようとしている。

一応、日本政府は、事故の調査等の報告を米軍に要請はしているが、これまでのやり口からもまったく信用は出来ない。

沖縄では、普天間、高江に配備しようとしているらしい。

民家の少ない高江地区なら良いという問題では全くないが、

特に普天間飛行場(基地)への配備は言語道断である。

私は、普天間飛行場にも行っているが、まさに民家のど真ん中
普天間小学校も隣接しているのだから。

イエス・キリストに従う者として、神さまの名を汚すような怒りの発散の仕方や、暴力に(それは何も肉体的とは限らぬ、言論上の暴力も含め)訴えるべきことは慎まねばならない。

しかし、・・・である。そうだ。
だが、しかし である。

クリスチャンは怒るべきことには、しっかりと怒らねばならないと思うし、クリスチャンは、単なる“お人好し”の“いい人”でなければならいとは、私は全く思わない。

世のクリスチャンよ、怒るべきことには、正しい形で怒りを表明しよう!

おじさんは、怒っているぞー プリプリ!

今日は6時から、大飯原発再稼働反対の緊急集会
があり、私も参加する。

東京では、首相官邸前に、再稼働反対の思いを
持った者たちが先週から結集している。

ただ、マスコミはそのことに一切触れようとは
しない
が、先週は4万5千が集まったという。

今日は、10万人の動員を目指している
とも聞く。

クリスチャンは、世俗の垢にまみれぬように
教会にだけ留まっていてよいものではない。

今日は、来週1日には、大飯を再稼働させる動きに反対しての集会が、全国各地で開かれる。

クリスチャンよ、正当な怒りを抱いて、
町に出でよ!

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ペンテコステ礼拝 つなげる

日曜はペンテコステ礼拝だった。
ペンテコステは“不思議”の連続。

聖霊が「炎のような舌」になって現われて、
人々に降ったというのだから。

「炎ような舌」って、どんなのか、この目で
見なければ信じられない
とても不思議な光景である。

更に、
世界中の言葉が語られた。

外国語を学んだこともないだけでなく、
行ったこともない国の言葉を、
“無学な”「ガリラヤの人々」が話すのを
聞いた、というのだ。
これも、不思議な考えられない話。

ペンテコステ
それは、聖霊が人々に降ったこと。

天に昇られる前のイエスさまの
「聖霊を受けて、地の果てに至るまで、
わたしの証人となる」(使徒1:8)
との言葉の成就。

ただ、外国の言葉で弟子たちが話したのではない。
「神の偉大な業」が語られた(2:11)。

だから、単にこけおどしの事件であったのではなく、
“神の偉大な業”である
イエス・キリストの業が証しされた出来事であった。

この時の群れが
キリストの名による教会となっていった。

だから、ペンテコステは
「キリスト教会の誕生日」でもある。

しかし、・・・である。そうだ。
だが、しかし である。

それだけではない。
いや、
このことを否定するのではない。

そうではなく、ペンテコステの不思議さ、
驚くべきことは、
聖霊の働きの本質として、

わたしにしっくりきたこと・・・

それこそが
「つなげる」こと。

先日の福島フィールとワークにおいて、
飯舘村の菅野村長がおっしゃった。

「放射能の恐ろしさ、
それは、身体に悪影響を及ぼすことだけではない。
放射能は
人と人を分断する」

サタンの働きと同じだと思った。

サタン、それは、人と人、人と神の間を
分断するもの。
それがサタンの働きの本質である。

晴佐久神父は、

「愛は電流のようなもの。
 つながっていないと
 愛は働かない」
と言っている。

サタンの業を粉砕し、神の業を行う聖霊の働き。

それこそが

「人と人 そして神と人をつなげる」業

ペンテコステの時  五旬祭の日に、
当時の世界中から人は集まっていた。

そこで起こった “つなげる”神の業

それが、言葉の壁を超えること。

言葉の壁は、私たちのコミュニケーションを
妨げてしまうことが多々ある。

その言葉の障害が
この時、取り除かれた。

この時、聖霊の受けた人々は

言葉の壁を超えて、
その場にいる人が 「神と」「人と」
つなげられて、

神の業を見た。

これこそが

ペンテコステの日に起こった出来事。

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ブログ再開

8月19日からブログ記事が更新出来ず、いろいろとご心配いただき申し訳ありませんでした。
今後順次記していきますが、今年の夏はなかなか大変でした。
パソコンの不具合、家族の入院・・・
そんな中、9月の前半に休暇をいただき、関東・東北・関西にも行ってきました。
出来る限り、その報告もしていきますので、お読みいただければ感謝です。

 

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無牧師支援

連盟では、現在は「無牧」とは言わない。
牧師がいなくとも、牧会は出来ることから、“無牧師”という言葉が使われている。

中四国連合内には、現在無牧師教会が3箇所(福山教会、大竹教会、徳山伝道所)あり、
説教支援のために、説教者を派遣している。

伊勢崎教会も、無牧師の時に、月に1度、連合内の牧師を派遣してもらった。

先日の22日の日曜に、無牧師教会の一つである福山教会で説教奉仕の御用にあたらせていただいた。

昨年も、計画はあったのだが、宿泊等の関係で、実現しなかった。

高知から瀬戸大橋を渡って、車で約3時間。ETCの休日割りを使えば、
高速代は片道2000円。6月で終了するとのことだが、どうなるのか・・・

事前に数人の礼拝だとは聞いていたが、この日も私を含めて出席者は5人。
ただ、求道者の壮年の方が先月から礼拝に出席されているのは感謝だし、嬉しいことだ。

ヨハネ6章16~21節をテキストにして語らせていただいた。

ガリラヤ湖で難破しそうになった弟子たちが、イエスさまを舟に迎え入れようとしたら、
「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」という話。
この時、湖の上を歩いて舟に近づいたイエスさまのことを、弟子たちは喜ぶどころか、
恐れたとある。マタイやマルコによると、あろうことかイエスさまのことを、
「幽霊だと思って恐れた」という。
そんな弟子たちに向かって、イエスさまは「わたしだ。恐れることはない」と声をかけられたが、
その呼びかけの声によって、彼らは安心し、イエスさまを迎え入れようとした。
この「わたしだ」は、原語では“エゴー・エイミ” 「わたしだ」ということを示しただけでなく、
「わたしはある、わたしはあなたたちと共にあるのだよ」とおっしゃろうとしたのだろう。
舟は教会を象徴すると言われる。「エゴー・エイミ」と呼び掛けてくださるイエスさまを舟に迎え入れようとすること。それが、教会が目指す方向に進んでいく道筋。

福山教会のように、一桁の出席者で礼拝されている教会は全国に多数ある。
その現実は、とても厳しく希望が見出せずにいらっしゃるかもしれない。
しかし、イエスさまをお迎えさえすれば、教会はちゃんと目指す地に進んでいけるのだと信じます。

福山教会のこと、これからも祈らせてもらいます。

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わたしたちのガリラヤ

「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。
そこでお目にかかれる。」                          (マタイ28章7節)

日曜の早朝に、墓に行った女たちに告げられた主の天使の言葉。

弟子たちにとってのガリラヤ、それは生前のイエスさまと共に歩んだ場所。
同時に、彼らの生まれ故郷であり、日常の生活の場でもあった。

復活のイエスさまは先に行かれ、そのガリラヤで、弟子たちにお姿を現された。

「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。」(ヨハネ21章4節)

ガリラヤに帰り、日常の生活に戻った漁師の弟子たちは漁に出たが、一晩中漁をしても獲物は何もなかった時のこと。

夜明け時に、復活のイエスさまは、“既に”岸に立っていて下さった。
主の不在の中での不漁は、弟子たちに疲れだけでなく、徒労感さえ与えたことだろう。

しかし、そんな弟子たちのところに、イエスさまはお姿を現され、彼らのことを待って
いて下さった。

私たちにとってのガリラヤ それは日常の場所。
家庭であり、職場であり、学校であり、そして日常の生活の延長である教会。

普段の生活に励む私たちのところに、既に立って居て下さり、ご自分の方から声をかけて下さる。

主よ、感謝します。

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同行二人

朝、福岡の妻からメールが届くまで全く忘れてしまっていた。
そう、今日は、私の32回目のバプテスマ記念日。本当に忘れていた。
早いものだ。1979年4月15日、大学3年生のイースターだった。

私の母教会は単立の教会で、教会にはバプテストリーはなかった。
というより、その頃は会堂もない教会だった。
だから、鴨川の上流に出かけていっての、川でのバプテスマだった。

川の水が冷たかったこと以外、ほとんど覚えていない。
いや、それだけでなく、キリストの購いも復活もどこまで分かっていたのか
はなはだ怪しいものだ。

まさか、これほど続くとも思っていなかったし、まして牧師になるなんて
全く思っていなかった。

ここまで、長かったといえば、長かったなあ。
これからもどんな、人生の旅となるのか

同行二人

復活のイエスさまとの旅は、楽しみでもある。

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神の選び

ついにレベル7であることを、国が認めた。

地震直後から、チェルノブイリに匹敵するほどの事態になるのではと言われていた。にも関わらず、「レベル4だ」「5だ」としか発表せず、「ただちに人体に影響はないと思われる」という報道を国は繰り返した。その認識の甘さが、対応の遅れや拙さを生んだことに対して、国はどのように責任を取ろうとするのか。東電がとんでもない会社であることは明白だが、責任は東電にだけあるとは思えない。現政権はいうに及ばず、前政権がここまで原発行政を推進して来たのだから、彼らも言い逃れは出来ないであろう。

福島第一原発は、福島県双葉郡大熊町と双葉町にまたがって位置しているが、この大熊町と双葉町にはキリスト教会が一つだけ存在する。それが大熊町大野にある福島第一聖書バプテスト教会(保守バプテスト同盟)である。いや、放射能に汚染された元の場所に戻れるのが何年先になるのか分からないことからすると、大熊町に“在った”教会と言った方が相応しいのかもしれない。発電所まで約4キロほどに位置するこの教会は現在閉鎖されており、教会員の方たちは、避難生活を余儀なくされている。佐藤牧師ご一家を含め、50名ほどの方たちは先月末から、奥多摩のキャンプ場で生活されているとのこと。

受けられた苦しみと試練の過酷さを思うと、祈らざる得ない思いとなる。教会のホームページの佐藤彰牧師の『避難生活報告』の文章を読んでいた妻が声をあげた。何と佐藤彰牧師の誕生日は、3月11日だと言うのだ。(『避難生活報告 その7』)。 原発の町に唯一つ在った教会の牧師の誕生日が、震災の日というのは、偶然にしては出来すぎで、これはもう神のみ手にある現実としか思えない。

世間的な尺度で見るならば、この教会と佐藤牧師の“不幸”“不運”はとてつもなく大きなものであり、「神にも見捨てられた存在」ということになるのかもしれない。しかし、イエス・キリストの十字架の光で、この出来事を見るならば、これこそが「神の選び」なのかと思わされる。神の選び、それは過酷である。その理不尽さゆえ、「神さまどうしてですか」と私のような者でも叫ばざるをえなかった。直接被災もしていない者が、訳知り顔の評論家然として、簡単に口にすべきことではないかもしれない。しかし、これが神と共に歩む者の現実であり、キリスト信仰が世間一般に考えられるご利益宗教とは一線が画されるゆえんではないか、と思うのである。

佐藤牧師の『避難生活報告』の最新の報告を、長いが、全文引用させていただく。聖歌『とおきくにや』の歌詞にあるように、“揺れ動く地の中にあって、なお輝いている十字架を見る思い”となったから。

佐藤 彰牧師の避難生活生の声

避難生活報告 その16  4月8日金曜日
私たちは今週、日常を取り戻しました。朝7時に子供たちは食事をし、近所の子供たちと一緒に学校へ行きました。初日に、どきどきしながら中庭で待つ子供たちの緊張が伝わってくるようで、みんなが親になった気分で写真を撮り、祝福を祈って「いってらっしゃい」と声をかけました。「ただいま」と声がし、ほどなく遊び声が聞こえるのもいいものです。久々の日常に出遭ったようで、この瞬間だけ見るとまるで震災などなかったかのような、不思議な気持ちになります。何気ない日常がこんなにもいとおしいとは、これも震災のもたらした効果でしょうか。

4月3日の奥多摩での最初の日曜礼拝には、7,80名が集ったでしょうか。東京ということもあって、近郊に避難している教会員も家族とともにかけつけました。すでに書いたことですが、今回の震災でつくづく教会はすごいと思いました。建物が閉鎖し、信徒が散らされ、組織も規約も年間プログラムも役員会も無くなる中で、それでも教会は生き延びました。キリストの教会は、押されても、散らされても、決して消滅することがないことを知らされたのです。

正直なところ私は、地震と津波に追い討ちをかけるように原発事故が起こった当初、宣教の歴史もここで幕を閉じるのだと思いました。町が放射能に汚染され人々が消えたのでは、地域とともに立つ教会も存在しないと考えたのです。70年にわたるあの地域での宣教の歴史に、こんな形でピリオドを打つようになろうとは、思ってもいませんでした。やりきれない思いを胸に、これも現実と受け止め、あとは信徒の就職の世話と、それぞれの転居先にある教会に受け入れを依頼し、働き人を他の教会に紹介して、この地における私の働きも幕をおろすのだと。しかしその後の展開は、私の想像をはるかに超えるものでした。教会はぎりぎりの状態でいのちをつなぎ、生き延びたのです。

初代教会が迫害で散らされる中、生き生きと姿かたちをあらわしていった記録は、新約聖書で知っています。けれどもまさか現代のこの日本で、東北の田舎にある普通の教会の信徒たちが、行く当ても無く突然放り出されて、方々に散らされ、けれども何とか体制を持ち直し、互いに結び合い、キリストの体を再び形づくるようになろうとは、予想もしない展開でした。加えて大げさに言えば、教派を越えて私たちを応援してくださる日本各地や世界の教会が現れたのです。あまりのドラマ仕立てに、これはいったいだれの脚本ですかと、いぶかしがるほどです。

日曜日の夜、「それにしても、よく集まるね」と家内としみじみ語り合いました。今までも私たちは教会の渦中にいたはずです。けれども、見ているようで見えない世界があり、知っているようで知らない世界があることを知りました。見えるものが一つひとつ引き剥がされる中で見えてきた、震災で得た宝です。

「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」詩篇37篇23~24節

ところで、米沢で雪景色をバックに手作り卒業式が行ったことについては、すでに報告しました。そして今週、親子ともども初めての土地での入学式を迎えました。ところが、着の身着のまま家を出てきたため、式で着るスーツがありません。そこでキャンプ場スタッフの方々に、似た体系の人のスーツからワイシャツ、ネクタイまでを探していただき、夫婦ともども拝借しての、ありがたみのいっそう増す入学式となりました。これもいつか、ゆくゆく語り継がれる思い出の一つになるのかと思うと、震災以降何だか語り継がれる出来事が加速度的に増え続け、整理がつかないまま、恵みの山に突入しそうです。

小学校に通い始めた子供たちも、地域の人たちが用立ててくださったランドセルがよほどうれしいらしく、学校から帰っても背にしている姿を見ると、おかしくもあり、微笑ましくも映ります。

他方私たちは、深刻な問題を抱えています。職場に呼び戻される兄弟がいる一方、キャンプ場でちょっとした就職説明会を企画したところ、10名もの人が集まったのには驚きました。子供たちの転校も、大学受験などを控えていると決断は容易でなく、いつ被災した高校が再開するのか、さらには戻ったとしても電車は動いているのか、など予測不能な状況下で、待ったなしに地元の高校に転校するか、それとも戻るのか、あるいは通信にするのかの決断が迫られています。震災は過酷です。あらゆるところに亀裂をもたらし、引き裂きます。せめてその心までも引き裂かれることのないように、私は牧師としての務めを果たさなければなりません。

どうか、お祈りください

福島第一聖書バプテスト教会とその教会員、そして佐藤彰先生の上に、神さまの豊かな祝福と慰めがあるようにお祈りいたします。

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