« 2012年7月 | トップページ | 2013年4月 »

2012年8月

華やかさの陰で

シリアで日本人の女性ジャーナリストが

殺害された。

同行の記者に彼女の語っていた言葉は、

私たちの心を刺す。

「華やかな五輪の陰で、

砲弾の飛び交う中で暮らす

シリアの人々の現状を伝えたい」

クリック下されば感謝です。

ブログランキング・にほんブログ村へ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

8月19日 「静かなる細き声」 

「静かなる細き声」  2012年8月19日

  列王記上19章1~18節  平林  稔

 みなさん、お帰りなさい。先週は平和主日礼拝として守りましたので、旧約を離れましたが、今日はまた列王記です。列王記、これは字のごとく、イスラエルの国の王の列伝です。ソロモン王の死後、国は二つに分裂しましたが、この列王記には、南のユダ王国と北のイスラエル王国の両方の国の王さまの事が記されています。その王たちの伝記の中に、主から遣わされた預言者たちのことが書かれています。預言者、これは、単に未来の予知をする人のことではありません。預言の“預”は「預ける」、神の言葉を預けられて民たちに伝える役割を託された者たちのことです。ですから、彼らの語る言葉の中には、民や国の将来のことも含まれてはいました。

 そんな預言書の一人が、今日の話の中に登場するエリヤです。彼は、南北に分裂した王国の北王国イスラエルで、アハブという王様の治世に活躍した預言者です。アハブ王は、外国から迎えた妻イゼベルと共に、北王国の中に、バアルという外国の異教の神を持ち込み、その偶像を祭る祭壇を国の中に積極的に築いた王でした。妻、すなわち王妃であったイゼベルは、主なる神に仕える預言者たちを迫害し、その多くを殺害しました。

 今日の19章の前の18章には、エリヤが一人で、バアルの預言者たち450人と、カルメル山で対決して勝利した有名な話が記されています。今日はこのことは詳しく述べませんが、干ばつに襲われたイスラエルの国に、雨を降らせるように双方の預言者がそれぞれの神に祈ったのですが、雨を降らせたのは、エリヤの祈りでした。イスラエルの神、ヤハウェこそが、御自分こそまことの神であるあることを示して下さったのです。それを見たイスラエルの人々は、エリヤの言葉に従い、バアルの預言者たちを皆殺しにしました。

 19章はそれに続く話です。これでアハブ王も王妃イゼベルも悔い改めて主なる神さまに立ち帰り、バアルを棄てたかというと、そうならないのが世の常のことです。エリヤがバアルの預言者たちを剣で殺したことを知ったアハブ王の王妃であったイゼベルは、使者を送ってエリヤに2節で「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」と言い、エリヤ殺害を命じました。このイゼベルは、聖書の中に登場する鬼嫁の中でも最強の一人、最悪妻だとも言われている女性ですが、この2節の言葉も「明日の今頃までに自分の命を懸けて、エリヤを殺す」との宣言です。

 カルメル山でたった一人で、バアルの450人の預言者と逃げも隠れもせずに戦ったエリヤですから、王妃であったとはいえ、一人の女性の言葉にめげるような人物ではないように思うのですが、このイゼベルの強烈さは、当時の国の人々には知られていたのでしょうか、イゼベルの言葉を聞いたエリヤは、3節にあるように一目散に逃げました。巻末の地図をご覧いただければと思いますが、5『南北王国時代』の地図です。カルメル山は、地中海沿岸の北王国の北の方、ここからベエル・シェバ、南ユダの南部まで逃げているのです。半端な逃げ方ではないですね。彼に従っていた従者をそのベエルシェバの町に残して、自分は更に荒れ野にまで入り、更に一日の道のりを歩き続けたというのです。一人の女性の言葉だけで、一目散に逃亡しました。4節後半「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。もう生きる気力さえなくしています。

 エリヤは、単に苦しみや悲しみによって絶望したのではないでしょう。カルメル山での大勝利、それはものすごいエネルギーが必要だったでしょう。アドレナリンも全開。緊張、プレッシャー、ストレスに満ちていたかもしれません。そしてその戦いに勝利した。それも誰の眼にも明らかな、完全勝利です。大きな喜びにも満たされたでしょう。しかしそれが何の実りも生まなかったように思える事態に直面して、彼は自分がやって来たことが一体何であったのかという気持ちに襲われたのではないでしょうか。

 そんなエリヤに、神は御使いを遣わして、食べ物を与え、神の山ホレブへと導かれます。神はエリヤを活かし、もう一度用いようとされたのです。ホレブとは、あのモーセが十戒を与えられた山、シナイ山の別名です。イスラエルの民と主なる神さまとの出会いの原点とも言える場所です。彼はそこの洞穴で世を過ごすのですが、その時主の言葉を聞きます。「エリヤよ、ここで何をしているのか」全能なる神さまのことですから、彼が何をしているのかは、百も承知のはずです。これは「こんなところで何をしているのか」という叱責の言葉ではありません。原文から少し大胆に訳すなら、これは「あなたにとって、今ここで問題であることは何か」神さまは、エリヤを責められるのでなく、また励まされたのでもなく、「あなたは何を問題としているのか、何を苦しんでいるのか」と問うておられるのです。

 彼の答えが10節です。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」

神はエリヤに語ります。11節「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」。この時、エリヤは洞穴の中にいました。これは単に引きこもっている者に対して「外の世界を見なさい」というようなことではありません。エリヤはイゼベルが怖くて逃げたというより、主なる神さまから逃れようとしたのです。その彼に向かって神がおっしゃったのは「主なる神の前に立つこと」です。ここでのエリヤほどではなくとも、私たちも自分の歩みの中で、挫折を感じたり、時には絶望感に苛まれることがあります。エリヤのように、自分自身の洞穴の中に引きこもってなかなか抜け出すことが出来ない時があるものです。

それが前に向かって歩み出せるのは、主なる神の前に立ち、自分の顔を主なる神に向けること、そのことによってだけなようです。当面の問題を解決することは、前に向かって歩み出す条件ではないのです。私たち信仰者が歩み出せるのは、神さまの前に出て、その無力な自分自身を献げることによるのです。

しかし、エリヤは、すぐには洞穴から出て来れませんでした。彼の受けた傷と痛みはそれほどに深かったのです。エリヤが閉じこもっていた洞穴の前を主なる神が通り過ぎられたことが11節に記されています。

「見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を/裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。」

山を裂き岩を砕くような激しい風と地震と火、それらのことが洞穴の中にいたエリヤの前で起こったのです。しかし、ここでは、「主はおられなかった」と聖書は語ります。「主がおられる」というのは、どういうことなのでしょうか。ここでの風と地震と火も、神さまが起こされたものなのでしょうが、そこには主は居られなかったというのです。被造物である人間は神さまを見ることは出来ません。しかし、姿が見えずとも、私たちは神さまとの出会いを体験することは出来ます。エリヤは風の中にも、地震の中でも、火の中でも、主なる神との出会いを体験しなかったのです。

これらの現象は、ある意味、カルメル山でのバアルの預言者との対決の体験にも通じます。私たちは神さまが私たちと共におられることを、そういった特異な、特別な体験の中に求めたくなるものです。エリヤも、バアルとの対決の勝利の後には、天から主の火が降り、自分の戦いが実を結ぶという達成感の中に、神さまとの交わりと信仰の土台に置いたのです。しかし、それは、彼を活かすことにはならなかった。イゼベルの前から、いやイスラエルの社会から、そして神さまの前から逃げ出させることにしかならなかったのです。

この時の洞穴のエリヤも、これらの出来事の体験によっては、洞穴から出て来ることはありませんでした。彼を洞穴から導き出し、彼が神さまと出会えたのは、そういった特異な体験ではなかったのです。それは火の後に彼の耳に聞こえた「静かにささやく声」でした。以前の訳では「静かな細い声」でした。神さまとの出会い、そしてその臨在を感じての交わりの中で生きること、それが信仰者としての在り方です。エリヤは、一人で450人の異教の預言者との戦うことは出来ました。また、地震や火や風の体験をしました。しかし、そういったことに信仰の土台をおいても、私たちが前に歩み出すことにはならないのです。大きな激しい体験、華々しい勝利や成功、あるいは私たちの達成感、そういったことは、本当の意味での私たちの信仰の土台とはならないことを、この話は伝えてくれます。

エリヤが洞穴から出て来ることが出来たのは、彼を外に導き出したのは、静かにささやくような細い声だったのです。大きな仕事をやり遂げること、また風や火やましてや地震、それは日常的な出来事ではありません。もしそれらのことの中で、エリヤが神と出会い、洞穴から出て来ることが出来たのであれば、私たちは大変です。しかし、静かな細い声、これは決して大きな出来事ではありません。エリヤがその小さな出来事を通して、主なる神と出会い、洞穴から出て来ることが出来たことは、私たちにとっては、大きな慰めとなるのではないでしょうか。

そして再び「エリヤ、ここで何をしているのか」と尋ねられます。しかしここでのこの問いかけは、9節の問いかけと同じ言葉ですが、意味合いは大きく異なるでしょう。14節のエリヤの答えからも、彼の不安と恐れの問題は解決していません。しかし、彼はそのままで主の前に出てきたのです。これで良いのです。

神さまは再び「エリヤよ、ここで何をしているのか」と問うてくださいます。ここでの彼の答えも前と同じですが、この時は、神の前に出ての答えです。それを聞いた神の答えは、前とは違います。「行け、あなたの来た道を引き返し」とあります。直訳すれば「行け、帰れ、あなたの道を」です。そして、彼がすべきことを、彼に託される事柄を命じておられます。

これは単に、苦しみの中にいるエリヤに対しての慰めと励ましではありません。むしろ、エリヤに新たな使命を与え、彼を元いた場所へと遣わしておられるのです。

私たちも、主なる神の前に立つこと、これは何もこの二本の脚で立つことではありません。自分の主体的判断で、神と相対するということです。その私たちは、静かな細いささやくような声で、私たちを洞穴から導き出し、次に歩むべき道筋を伝えて下さるのです。祈りましょう。

お読みいただいて感謝します。

プチッとクリック下さればうれしいです。

ブログランキング・にほんブログ村へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

8月12日 平和主日礼拝 「ピースメイカー」

マタイによる福音書5章9節

みなさん、お帰りなさい。本日は平和主日礼拝として礼拝を守っています。

「平和を実現する人々は幸いである」と主イエスはおっしゃっています。

以前の訳では「平和をつくり出す人たちは」となっていました。これは、

イエスさまからの私たちへの「平和を実現し、つくり出す者は幸いだ、

そういう者になれ」という命令でしょう。

 この「平和を実現する人々」という言葉ですが、原文では、平和という言葉と「造る、生み出す」という言葉が結合された一つの単語です。英語で言えば、今日のタイトルにしましたように、“peacemaker”です。

私たちは、イエスさまから“peacemaker”となっているか、そのように生きているか、と問われているのです。調停者、仲裁者

 イエスさまは、平和を愛する人々は幸いだとおっしゃっているのでも、平和を願う人々は幸いだ、といっておられるのでもありません。平和を実現し、つくり出す人々が幸いだとおっしゃっているのです。平和を実現するとは、争いや対立があるところに、平和を確立すること、人と人とが、あるいは自分と人とが対立し、いがみ合ってしまう、その問題を解決し、関係を正すことです。英語の調停者、仲裁者です。しかし、私たちはそのように平和を実現するのではなく、ただ争いを避け、問題から逃げ、またただ先送りするだけということが多いように思います。それは、平和を好むことではあるかもしれませんが、実現することとは到底言えません。本当に難しいことです。

 それでは、ただ争いをさけているだけでは平和を実現することにはならないから、その当面の問題解決に向けて、行動すればよいのでしょうか。争いというのは、互いが自分の正しさを主張することによって起こります。それぞれに自分の言い分があるのです。相手に自分の正しさを認めさせ、自分の言い分を受け入れさせる、そうなれば問題は解決する、そう思って行動するから争いは起こるのです。自分の正しさを確信している人ほど、そういう争いをしたがります。問題から逃げていてはいけない、ちゃんと白黒決着つけなければならない。しかしそれは結局、自分が相手に勝って、相手の間違いを正して、自分に屈服させることにしかならないのです。人間のすることです。争いや対立において、どちらかが完全に正しくて、どちらかが完全に間違っているというようなことはないからです。

 「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と主イエスはおっしゃいました。平和を実現する人々は、神の子と呼ばれるのです。神の子、それは神のような人ということでしょう。それほど平和を実現することは困難だということです。そんなこと、私たちに出来ない、イエスさまは私たちに出来もしないことを命じられたのか、と思わされるほどです。しかし、イエスさまはその無理なことを私たちに命じておられるのです。

 この地上に平和を実現することは大変難しいことです。私たちにはせいぜい平和を願い祈ることくらいしか出来ない。主イエスさまはそのことはよくご存知でした。それゆえに、「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子とよばれる」と言われたのです。

 しかし、イエスさまのこのお言葉は困難さのみを語っておられるわけではありません。「幸いです」と言われています。それは、あなたがたはこの幸いに生きることが出来るという宣言をして下さっているのです。それはどのようにしてか。それを知るカギも、「その人たちは神の子と呼ばれる」という言葉の中にあります。「神の子」とは「神のような人」という意味だと先ほど申しました。それは、私たちがそう呼ばれる時には、そういう意味になるだろう、ということです。そして文字通り、神の子であられる方がただ一人おられます。それは言うまでもなく、主イエス・キリストです。イエスさまは神さまの独り子、文字通り神の子です。その神の子イエスがこの世にお生まれになったのは、私たちと神さまとの間に平和を実現して下さるためでした。神の子主イエスは、平和を実現する者としてこの世に来られたのです。

 私たちは元々、神さまに背き逆らい、敵対していました。それは神さまとの間が平和でなかったからです。信仰を持って神さまの下に生きるようになると、自分の自由を奪われ、自分らしく生き生きと生きることが出来なくなるという思いは、正にその敵対関係の現れです。神さまを自分の自由を奪い、」束縛する敵と感じているからです。

 エフェソの信徒への手紙214節以下354頁「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

 イエスさまの十字架の意味がここにあります。それは神さまと敵対してしまっている私たちが、神さまとの間にある敵意という隔ての壁を取り壊して下さったのです。そのために、イエスさまは神と敵対してしまった私たちの身代わりとなって十字架で死んで下さった。

 私たちが平和を実現する者としての幸いに生きることが出来るのは、この神の子が、自分の罪の身代わりとなって死んでまで下さったことをただ信じることによるのです。

 この主イエスの自己犠牲によって、私たちは神さまとの間に平和を得ることが出来たのです。神さまを信じるということは、その敵意を取り除かれ、神さまの下で生きることを喜ぶ者となるということです。信仰者は、神さまとの平和を得ているのです。この平和を実現して下さったイエスさまこそが、私たちのピースメイカーとなって下さったのです。

 私たちには、平和を実現する力はない、しかし、私たちが平和を実現する者としての幸いに生きることが出来るのは、そのイエスさまを信じ、そのイエスさまの歩まれた道を歩むことによってです。

 矛盾して聞こえるかもしれませんが、「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」という今日の御言葉は、頑張ってこのようなものになれという命令ではなくて、あなた方のような無力な者であっても、この幸いに生きることが出来るという約束なのです。天における神さまと私たちの間の平和を実現して下さった主イエス・キリストと共に合うならば、私たちはこの地上に、天にある平和を映し出し、平和を実現する神の子として歩むことが出来るのです。

 最後に、週報の巻頭言にも記しましたが、そのようにピースメイカーとして歩んだ一人の人物の言葉を読んで終わりたいと思います。その人の名は、マルティン・ルーサー・キング キング牧師の名で知られ、“I have a dream”のスピーチでも有名なアメリカの公民権運動の指導者です。彼はサザンバプテストではありませんが、バプテスト派の牧師でもありました。手短に彼の歩みを紹介するのは、困難ですが、差別の激しかったアメリカ南部において、黒人の人種差別撤廃のために奔走しました。彼の運動を貫く理念は非暴力主義です。彼自身はインド独立の父とも言われるガンジーに倣ったのですが、彼の根底にあったのは、イエスの

彼は、ただ、そのイエスさまに倣ったのです。

 「汝の敵を愛せよ」

マルティン・ルーサー・キング 

「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようにやりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。

どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。

だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。

真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。

国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。

しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。そうすれば、私たちの勝利は二重の勝利となろう」お祈りをしましょう。

お読みいただいて感謝します。
クリック下さればうれしいです。

⇒ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

「わが恵み、汝に足れり」

精神科医の工藤信夫氏は、『こころの風景』(いのちのことば社P6872)の中で、一人の患者の事例を紹介しておられる。この人は、診察室にやって来た頃は、目に光はなく、暗い表情で家族の確執や厳格な父親の下で息をひそめるように生きてきたことを、弱々しい声で語っていた。そんな人が、ある時突然次のように語ったという。

「先生、不幸や不満ばかり言っていましたが、この間、久しぶりに祖父母を訪れ、父や母の生い立ちや結婚のいきさつなどいろいろ聞きました。そしたら、父や母にもそれぞれ苦労があったこと、またお父さんはああいう形でしか、私に対するいたわりを表せない人だとわかりました。(中略)このごろは私も言いたいことを言えますし、やっと家庭らしい家庭になりました。先生、私は本当は幸せだったのです。」こうしてこの人の家庭には笑顔が戻ったそうだ。

 人間の幸不幸を、“気の持ちよう”という言葉で片付けようというのではない。しかし人は、自分の不遇や運の悪さにばかり目をやり、自分を“悲劇のヒロイン(ヒーロー)”にしてしまうものだ。与えられているものよりも無いものの方ばかりに意識が行き、不満や愚痴をこぼし、“足れり”ということを知らない。いや知ろうとしないのではないか。私たちは、本当に不幸なのだろうか。

 パウロは、自分の祈りに対する「わが恵み、汝に足れり」(Ⅱコリント12:9)という主からの答えを、私たちに残してくれている。主は、私たちの人生を善き方向に導き、私たちが生きていくのに必要な全てのものを与え満たして下さるお方なのだ。そのために、ご自身の独り子なるイエスさままで贈って下さり、そのイエスさまは、私たち身代わりとなって死んで下さったのだ。

その事に立ち帰ると、あまりに当然で意識さえしなかった太陽の光や空気、家や家族、教会等、全てのものが現に与えられていることを知り、不満より感謝する気持ちが起こされる。詩編にも「あなたは善なる方、すべてを善とする方」(119:68)とある。この言葉が信じるに足るものであり、自分が満たされていることに気付くならば、私たちの毎日は大いに変わるのではないだろうか。

人間が不幸なのは、自分が幸福であることを知らないからだ。」ドストエフスキー『悪霊』

         

ブログランキング・にほんブログ村へ

お読みいただいて感謝します。
 クリック下されば、嬉しいです。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

汝の敵を愛せよ

「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようにやりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。

どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。

だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。

真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。

国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。

しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。そうすれば、私たちの勝利は二重の勝利となろう」(マーティン・ルーサー・キング「汝の敵を愛せよ」、新教出版社、1965年、79P)

お読みくださって感謝します。

クリック下されば嬉しいです。

ブログランキング・にほんブログ村へ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

明日を守られるイエス様

この讃美歌を最初に知ったのは、私の妻から。

とても辛かった頃に、ある韓国人のゴスペルシンガー
のカセットテープでこの歌を知り、涙を流して歌いながら
乗り切ったと言っていた。

行先のわからない旅には不安と恐れが伴う。

アブラハムは、主の命令に従って、
行き先も知らずに旅立った。

「明日のことを思い悩むな」と命じられる
イエスさまは、私たちの明日を守って下さる。

信仰とは、そのイエスさまを信頼し、委ねることなのだから。

お読みいただいて感謝します。
クリック下されば嬉しいです。

ブログランキング・にほんブログ村へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「平和への誓い」

昨年の8月6日に広島で行われた平和記念式典での
こども代表による「平和への誓い」

「今年、311日、東日本では、大震災によって、たくさんの人が命を失いました。今でも行方がわからない人がたくさんいます。多くの人が大切な家族や友だちを失い、津波で何もかもなくなった被災地の姿に、わたしたちは言葉を失い、悲しく、胸が苦しくなりました。

66年前の今日、午前815分、広島に原子爆弾が投下されました。爆風が何もかも吹き飛ばし、炎がすべてを焼き尽くし、人々の当たり前の生活と、多くの尊い命が一瞬にして奪われました。

どんなに苦しかったでしょう。 
どんなにつらかったでしょう。
どんなにくやしかったでしょう。

わたしたち一人一人は、だれもがみな大切な存在です。それなのに、どうして人間は、たくさんの命を犠牲にして戦争をするのでしょうか。戦争を始めるのは人間です。人間の力で起こさないようにできるはずです。

悲しみに満ちた広島に草木が芽生えました。人々は、平和への強い思いをもって、復興に向けて歩みはじめました。未来をつくるのは人間です。

喜びや悲しみを分かち合い、あきらめないで進めば、必ず夢や希望が生まれます。

わたしたちは、人間の力を信じています。人間は、相手を思いやり、支え合うことができます。人間は、互いに理解し合い、平和の大切さを伝え合うことができます。わたしたちは、今を生きる人間として、夢と希望があふれる未来をつくるために、行動していくことを誓います。」

201186日  

こども代表 広島市立三篠小学校6年 福原真拓

            広島市立己斐小学校6年 藤田菜々歌

お読みいただいて感謝します。

プチッとクリック下されば嬉しいです。

ブログランキング・にほんブログ村へ

| | コメント (6) | トラックバック (0)

« 2012年7月 | トップページ | 2013年4月 »