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8月19日 「静かなる細き声」 

「静かなる細き声」  2012年8月19日

  列王記上19章1~18節  平林  稔

 みなさん、お帰りなさい。先週は平和主日礼拝として守りましたので、旧約を離れましたが、今日はまた列王記です。列王記、これは字のごとく、イスラエルの国の王の列伝です。ソロモン王の死後、国は二つに分裂しましたが、この列王記には、南のユダ王国と北のイスラエル王国の両方の国の王さまの事が記されています。その王たちの伝記の中に、主から遣わされた預言者たちのことが書かれています。預言者、これは、単に未来の予知をする人のことではありません。預言の“預”は「預ける」、神の言葉を預けられて民たちに伝える役割を託された者たちのことです。ですから、彼らの語る言葉の中には、民や国の将来のことも含まれてはいました。

 そんな預言書の一人が、今日の話の中に登場するエリヤです。彼は、南北に分裂した王国の北王国イスラエルで、アハブという王様の治世に活躍した預言者です。アハブ王は、外国から迎えた妻イゼベルと共に、北王国の中に、バアルという外国の異教の神を持ち込み、その偶像を祭る祭壇を国の中に積極的に築いた王でした。妻、すなわち王妃であったイゼベルは、主なる神に仕える預言者たちを迫害し、その多くを殺害しました。

 今日の19章の前の18章には、エリヤが一人で、バアルの預言者たち450人と、カルメル山で対決して勝利した有名な話が記されています。今日はこのことは詳しく述べませんが、干ばつに襲われたイスラエルの国に、雨を降らせるように双方の預言者がそれぞれの神に祈ったのですが、雨を降らせたのは、エリヤの祈りでした。イスラエルの神、ヤハウェこそが、御自分こそまことの神であるあることを示して下さったのです。それを見たイスラエルの人々は、エリヤの言葉に従い、バアルの預言者たちを皆殺しにしました。

 19章はそれに続く話です。これでアハブ王も王妃イゼベルも悔い改めて主なる神さまに立ち帰り、バアルを棄てたかというと、そうならないのが世の常のことです。エリヤがバアルの預言者たちを剣で殺したことを知ったアハブ王の王妃であったイゼベルは、使者を送ってエリヤに2節で「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」と言い、エリヤ殺害を命じました。このイゼベルは、聖書の中に登場する鬼嫁の中でも最強の一人、最悪妻だとも言われている女性ですが、この2節の言葉も「明日の今頃までに自分の命を懸けて、エリヤを殺す」との宣言です。

 カルメル山でたった一人で、バアルの450人の預言者と逃げも隠れもせずに戦ったエリヤですから、王妃であったとはいえ、一人の女性の言葉にめげるような人物ではないように思うのですが、このイゼベルの強烈さは、当時の国の人々には知られていたのでしょうか、イゼベルの言葉を聞いたエリヤは、3節にあるように一目散に逃げました。巻末の地図をご覧いただければと思いますが、5『南北王国時代』の地図です。カルメル山は、地中海沿岸の北王国の北の方、ここからベエル・シェバ、南ユダの南部まで逃げているのです。半端な逃げ方ではないですね。彼に従っていた従者をそのベエルシェバの町に残して、自分は更に荒れ野にまで入り、更に一日の道のりを歩き続けたというのです。一人の女性の言葉だけで、一目散に逃亡しました。4節後半「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。もう生きる気力さえなくしています。

 エリヤは、単に苦しみや悲しみによって絶望したのではないでしょう。カルメル山での大勝利、それはものすごいエネルギーが必要だったでしょう。アドレナリンも全開。緊張、プレッシャー、ストレスに満ちていたかもしれません。そしてその戦いに勝利した。それも誰の眼にも明らかな、完全勝利です。大きな喜びにも満たされたでしょう。しかしそれが何の実りも生まなかったように思える事態に直面して、彼は自分がやって来たことが一体何であったのかという気持ちに襲われたのではないでしょうか。

 そんなエリヤに、神は御使いを遣わして、食べ物を与え、神の山ホレブへと導かれます。神はエリヤを活かし、もう一度用いようとされたのです。ホレブとは、あのモーセが十戒を与えられた山、シナイ山の別名です。イスラエルの民と主なる神さまとの出会いの原点とも言える場所です。彼はそこの洞穴で世を過ごすのですが、その時主の言葉を聞きます。「エリヤよ、ここで何をしているのか」全能なる神さまのことですから、彼が何をしているのかは、百も承知のはずです。これは「こんなところで何をしているのか」という叱責の言葉ではありません。原文から少し大胆に訳すなら、これは「あなたにとって、今ここで問題であることは何か」神さまは、エリヤを責められるのでなく、また励まされたのでもなく、「あなたは何を問題としているのか、何を苦しんでいるのか」と問うておられるのです。

 彼の答えが10節です。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」

神はエリヤに語ります。11節「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」。この時、エリヤは洞穴の中にいました。これは単に引きこもっている者に対して「外の世界を見なさい」というようなことではありません。エリヤはイゼベルが怖くて逃げたというより、主なる神さまから逃れようとしたのです。その彼に向かって神がおっしゃったのは「主なる神の前に立つこと」です。ここでのエリヤほどではなくとも、私たちも自分の歩みの中で、挫折を感じたり、時には絶望感に苛まれることがあります。エリヤのように、自分自身の洞穴の中に引きこもってなかなか抜け出すことが出来ない時があるものです。

それが前に向かって歩み出せるのは、主なる神の前に立ち、自分の顔を主なる神に向けること、そのことによってだけなようです。当面の問題を解決することは、前に向かって歩み出す条件ではないのです。私たち信仰者が歩み出せるのは、神さまの前に出て、その無力な自分自身を献げることによるのです。

しかし、エリヤは、すぐには洞穴から出て来れませんでした。彼の受けた傷と痛みはそれほどに深かったのです。エリヤが閉じこもっていた洞穴の前を主なる神が通り過ぎられたことが11節に記されています。

「見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を/裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。」

山を裂き岩を砕くような激しい風と地震と火、それらのことが洞穴の中にいたエリヤの前で起こったのです。しかし、ここでは、「主はおられなかった」と聖書は語ります。「主がおられる」というのは、どういうことなのでしょうか。ここでの風と地震と火も、神さまが起こされたものなのでしょうが、そこには主は居られなかったというのです。被造物である人間は神さまを見ることは出来ません。しかし、姿が見えずとも、私たちは神さまとの出会いを体験することは出来ます。エリヤは風の中にも、地震の中でも、火の中でも、主なる神との出会いを体験しなかったのです。

これらの現象は、ある意味、カルメル山でのバアルの預言者との対決の体験にも通じます。私たちは神さまが私たちと共におられることを、そういった特異な、特別な体験の中に求めたくなるものです。エリヤも、バアルとの対決の勝利の後には、天から主の火が降り、自分の戦いが実を結ぶという達成感の中に、神さまとの交わりと信仰の土台に置いたのです。しかし、それは、彼を活かすことにはならなかった。イゼベルの前から、いやイスラエルの社会から、そして神さまの前から逃げ出させることにしかならなかったのです。

この時の洞穴のエリヤも、これらの出来事の体験によっては、洞穴から出て来ることはありませんでした。彼を洞穴から導き出し、彼が神さまと出会えたのは、そういった特異な体験ではなかったのです。それは火の後に彼の耳に聞こえた「静かにささやく声」でした。以前の訳では「静かな細い声」でした。神さまとの出会い、そしてその臨在を感じての交わりの中で生きること、それが信仰者としての在り方です。エリヤは、一人で450人の異教の預言者との戦うことは出来ました。また、地震や火や風の体験をしました。しかし、そういったことに信仰の土台をおいても、私たちが前に歩み出すことにはならないのです。大きな激しい体験、華々しい勝利や成功、あるいは私たちの達成感、そういったことは、本当の意味での私たちの信仰の土台とはならないことを、この話は伝えてくれます。

エリヤが洞穴から出て来ることが出来たのは、彼を外に導き出したのは、静かにささやくような細い声だったのです。大きな仕事をやり遂げること、また風や火やましてや地震、それは日常的な出来事ではありません。もしそれらのことの中で、エリヤが神と出会い、洞穴から出て来ることが出来たのであれば、私たちは大変です。しかし、静かな細い声、これは決して大きな出来事ではありません。エリヤがその小さな出来事を通して、主なる神と出会い、洞穴から出て来ることが出来たことは、私たちにとっては、大きな慰めとなるのではないでしょうか。

そして再び「エリヤ、ここで何をしているのか」と尋ねられます。しかしここでのこの問いかけは、9節の問いかけと同じ言葉ですが、意味合いは大きく異なるでしょう。14節のエリヤの答えからも、彼の不安と恐れの問題は解決していません。しかし、彼はそのままで主の前に出てきたのです。これで良いのです。

神さまは再び「エリヤよ、ここで何をしているのか」と問うてくださいます。ここでの彼の答えも前と同じですが、この時は、神の前に出ての答えです。それを聞いた神の答えは、前とは違います。「行け、あなたの来た道を引き返し」とあります。直訳すれば「行け、帰れ、あなたの道を」です。そして、彼がすべきことを、彼に託される事柄を命じておられます。

これは単に、苦しみの中にいるエリヤに対しての慰めと励ましではありません。むしろ、エリヤに新たな使命を与え、彼を元いた場所へと遣わしておられるのです。

私たちも、主なる神の前に立つこと、これは何もこの二本の脚で立つことではありません。自分の主体的判断で、神と相対するということです。その私たちは、静かな細いささやくような声で、私たちを洞穴から導き出し、次に歩むべき道筋を伝えて下さるのです。祈りましょう。

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