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2012年7月

『ヒューマン・エラー』 by フライングダッチマン

ちょっと、言葉は激しいけど、真実だし、

聞いていて胸がすっとする。

絶対に、テレビなんかでは流れないだろうが、

現在、ネット上で大ブレイク中。

京都を中心に活動しているダンスロックバンド

FRYING DUTCHMAN の『human ERROR

彼らは歌う。

♪なんで、(原発)止めないか

 原爆だよ。♪

♪電気はなくても生きていけるけど、

 自然がなくちゃあ、生きていけないだろう♪

 是非、聞いて下さい。

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ボーン・トゥー・ラブ・ユー

昨日一昨日のように暑い時には、

この曲が聞きたくなる。

クイーンは、私が高校の頃に最もよく聞いたバンドの一つ

この透明感がたまらない!

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何が何でも

沖縄だけでなく、全国が反対しているのに、

野田政権は、オスプレイの配備を認め、23日には岩国に陸揚げされた。これから点検と試験飛行がなされ、10月には普天間飛行場に配備されることが一昨日報じられたが、

昨日は、沖縄防衛局が午前11時ころに高江にやって来て、

人々の反対の声を無視して、工事を強行して、資材がクレーン車を使って搬入された。

沖縄では、全市町村が反対の意思を表明しているに、

そんな声は全く無視している。

これは沖縄だけの問題ではない。

米国はすでに、報告書では、東北から九州にかけて、6つのルートで低空飛行の訓練ルートを発表している。

図:米軍が明らかにした低空飛行訓練ルート

これによると、高知も入っている。

野田さん、森本さん、いったい何を考えているのですか。

あなたたちの目には、国民ではなく、
アメリカのことしかないのですか。

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主の祈り 諸々

「主の祈り」は、イエスさまが「こう祈りなさい(言いなさい)」と教えられた福音書の記事(マタイ6913節、ルカ1124)に基づく祈りです。2世紀頃から正式に礼拝の中で祈られるようになったとされていますが、その頃に、聖書の本文にはない「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」が加えられたようです。

プロテスタントの多くの教会で現在用いられているのは、文語調のものですが、これは1880年に訳されたものです。

カトリック教会と聖公会では、独自の文語訳のもの(天にまします我らの父よみ名の尊まれんことを…)は現在では使われておらず、以下の共通口語訳として作成されたものが用いられています。プロテスタント教会の中にも、これを用いている教会もあるようです。

また、ハリストス正教会(東方正教会)でも、独自の文語訳による祈りが使われています。

 カトリック教会と日本聖公会共通口語
 
天におられるわたしたちの父よ、
 
み名が聖とされますように。
 
み国が来ますように。
 
みこころが天に行われるとおり
 
地にも行われますように。
 
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
 
わたしたちの罪をおゆるしください。
 わたしたちも人をゆるします。

 わたしたちを誘惑におちいらせず、
 
悪からお救いください。
 
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。

日本ハリストス正教会の「天主

天に在(イマ)すわれらの父や。
  願わくは爾(ナンジ)の名は聖(セイ)とせられ。
 
爾の国は来たり。
 
爾の旨は天に行はるるが如く、地にも行はれん。
 
我が日用の糧を今日我等に與(アタ)へ給へ。
 
我等に債(オヒメ)ある者を我等免(ユル)すが如く、
 我等の債を免し給へ。
 我等を誘(イザナヒ)に導かず、
 猶(ナオ)我等を凶悪(キョウアク)より救ひ給へ。

 蓋(ケダ)し国と權能(ケンジョウ)と光榮(コウエイ)は
 
爾に世々に歸(キ)す。
 
アミン。

私自身不勉強で、ハリストス正教会のことはあまりよく知らないのですが、文言には違いがあるのですね。細かくは、いろいろ違いますが、アーメンが“アミン”なのは興味深く思いました。

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昨日の高江の続報

高江のヘリパッド工事のことは、

ヤマト(ウチナーグチ«沖縄方言»でのウチナー«沖縄»以外の日本のこと)のマスコミが一切報じず、口をつぐんでいるので、ほとんどの方には、何のことか分からないのでしょうが、これは、今問題になっている “オスプレイ” 配備とも無関係ではありません。

もし昨日のように(どうやらその可能性は高そうですが)、

工事が強行されるなら、昨日同様

工事の様子がライブ配信されると思います。

沖縄では代表的な地方誌の

沖縄タイムスと琉球新報は、

いずれも一面トップで報じています。

以下をご覧ください。

・沖縄タイムス

・琉球新報

琉球朝日放送(TV)でも報じています。

・ステーションQ

昨日のライブ配信して下さったサイトを開くと、

今日もライブ配信がなされています。

現在のところ、防衛局はやって来ていませんが、

ヘリパッドの存在する場所やその周辺の映像を

流してくれています。

高江をご存じでない方は、是非見て下さい。

Live Video app for Facebook by Ustream

これを知った方は、まずこのことを覚えて下さり、

更に、周囲にこのことを伝えて下されば思います。

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工事強行!

ヤマトのマスコミは一切報道しようとしないが、

本日、沖縄防衛局と100名以上の作業員が

ヤンバルの高江に

やって来てヘリパッドの工事の

拡張工事を強行している。

その模様がライフ配信されている。

是非、クリックしてご覧ください。

高江のことをご存じ無い方は

まず次のサイトを見て下さい。

やんばる東村 高江の現状

基地の問題では、普天間飛行場だけでなく。

辺野古でも、工事は強行されているが、

ヤンバルの高江のヘリパッド建設は、

これまでも国と防衛局は全く無茶をしている。

高江へのヘリパッド建設の

ことは住民の反対行動が続いているのに、

その声を無視する形で、これまでも

工事が進められてきた。

しかし、ヤマトのマスコミはこのことを

全く報道していないから、ご存じない方も

多々おられるであろう。

ご存じない方は、次の

拙文をお読み下されば感謝です。

「沖縄見聞録②」 

「辺野古だけではない沖縄~東村高江の現状」

と、ここまで書いていたら、ライフ配信が

中断した。

現場はどうなっているのか・・・

是非、高江のことを覚えて下さい。
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7月15日 礼拝説教 『恐れよ!』           サムエル記下6章1~19節

※ タイトルを予告から変更しました。

 みなさん、お帰りなさい。本日のサムエル記は下の6章です。先週は、ダビデがユダ族という一部族の王だけでなく、イスラエル全土の王、国王になったことを見ました。545節には「ダビデは三十歳で王となり、四十年間王位にあった。七年六か月の間ヘブロンでユダを、三十三年の間エルサレムでイスラエルとユダの全土を統治した」とあります。その最初の76カ月の間、これがユダ族の王であった時期ですが、そこから、エルサレムに移ってイスラエル全土の王となっていったのです。

 先週は55節までみましたが、5章の6節以下には、彼の根城、根拠地をヘブロンからエルサレムに移した経緯が記されています。エルサレムというと、現代においてもイスラエルの国の首都ですが、今日のダビデの時までは、国の中心地ではなかったのです。56節には、この町はエブス人の町だったとあります。そこをイスラエルの国の王となったダビデが攻め取って、国の中心地へと築いていった、その始まりの時なのです。だから言ってみれば、これはエルサレム遷都です。その遷都に際して行ったのが、本日与えられた聖書の箇所である61節からに記されている神の箱をエルサレムに運び入れることでした。

 神の箱については、週報の巻頭言(土曜の記事)に簡単にですが書いていますので、そちらもご覧下さい。これは、契約の箱とも、また掟の箱とも呼ばれ、モーセがシナイ山で与えられた十戒の掟の言葉が刻まれた石の板が入れられた箱のことです。

  十戒は、十個の戒めと考えられています。しかしこれは単なるタブーの言葉ではありません。今日はその十戒の文言について詳しく話す時間がありませんが、十戒は、神と人間との契約の言葉であり、その十戒の最初の言葉は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」でした。ゆえに、十戒は、神さまとイスラエルの民との、解放の恵みに基づいてむすばれた契約の印です。そして、イスラエルの人々が神の民として生きる基本を教える十戒の石の板を納めた神の箱、契約の箱こそは、神の民として歩むイスラエルの解放の象徴でもあります。ダビデがエルサレム遷都にあたって、その神の民イスラエルの解放の象徴である神の箱を、王国統治の中心としようとしたエルサレムに運び入れようと考えたのも、自然なことだったでしょうし、新しきイスラエルの王として相応しい行為だったと言うことも出来るでしょう。

 けれども、神の箱をエルサレムに運び上げるその途中で、恐ろしい出来事が起こりました。箱を載せた車を引いていた牛がよろめいて、車から箱が落ちそうになったのです。車を御していたのは、アビナダブの子であったウザとアフヨという兄弟だったのですが、その様を見たウザは、箱が落ちるのを防ごうとして、咄嗟に手を伸ばして箱を押さえました。牛を御して箱を運ぶ役割についていた者としては、全く当然の行為に思えるのですが、それは主なる神さまの怒りに触れ、ウザはその場で打たれて、命が奪われたと記されているのです。一体どうして、神さまはなぜそんなことをなさるのか、この話を読む私たちを途方に暮れさせる出来事に思えます。これはどういうことなのでしょうか。

 最初に申し上げておきますが、このことに対して、私たち人間は明確な答えは得られないでしょうし、これから私がお話しすることも、皆さんを完全に納得させることも出来ないと思います。けれども、一つ明らかなことがあります。それは、この出来事、落下を防ぐために神の箱を押さえたウザが打たれて死んだことによって、神の箱に対するおそれの思いがダビデを始め全国民に及んだということです。これと同じ話が、旧約の別な書簡である歴代誌上の13章にも記されています。神の箱に触れたウザが亡くなった話は、国中に広まり、国民におそれの気持ちを起こさせたのです。

 実は、ペリシテ人と戦っていたイスラエルが、当時はシロという町に安置されていたこの神の箱を戦場に担ぎ出して、それによって神の助けを得ようとした話が、サムエル記上の47章に載っています。この時は、イスラエルは戦いに敗れ、ペリシテ人たちに神の箱を奪われてしまいました。勝ち誇ったペリシテ人は、神の箱を自分たちの神であるダゴンの神殿に置きましたが、翌朝になると、ダゴンの神の像がイスラエルの神の箱の前にうつ伏せに倒れていたのです。ペリシテの人々がダゴンを持ち上げて元の場所に像を据えたのですが、その次の朝にはまた、像は箱の前に倒れていました。しかも、ダゴンの頭と両手は切り取られ、胴体だけが残されていたというのです。更に、その神殿のあった町の人々に腫れ物が生じたのです。ペリシテ人は、気味悪くなったのでしょう、恐れの気持ちも起こったのでしょう。箱をイスラエルに返してきたのです。71節には、戻された神の箱は、それ以来キルヤト・エアリムという町に置かれたと書かれています。それ以降は、王となったサウルはこの箱には全く関心を持っていなかったようでしたが、新しく王になったダビデは、この神の箱に目をつけたのです。

 さて、本日の6章に戻りますが、2節の「バアレ・ユダ」は、キルヤト・エアリムの別名であろうと考えられています。ダビデは箱をここからエルサレムに運び上げるのに、精鋭三万を集めたのです。三万は半端ではない数です。この数からも、ダビデの並々ならぬ思いが込められているのが分かろうかと思います。これは、先ほどのサムエル記上4章のペリシテに箱を奪われて、戦いに敗れた時と同じように、ダビデの心の中には、今後の国の統治のためにも、神の箱が必要だろうと思ったからでしょう。今日のウザ打ちは、そんな時に起こった事件でした。

 この箱を担いで戦いに臨めば、神さまが共にいて助けてくれるに違いない、また、これを国を治めるために利用しようとする思い、それは神さまご自身を、自分たちの都合の良いように使うことです。まるで、お守りを懐に入れて、安心を得ようとすること、また、自分たちの気が向いた時にだけ、神社に出向いて家内安全や商売繁盛を祈願するのと同じです。私は決して、神社にお参りにいくこと、またそうした神社神道の全てを否定しようとしているのではありません。ただ、自分たちの都合の良い時だけ、神を利用しようとする人々の驕りを問題にしているだけです。

 今日のダビデのエルサレム遷都のための神の箱を移す行為も、それは神さまに対するおそれを欠いた行為だったと言えるのではないでしょうか。神の箱を、そして神さまを、王国一致のための手段として用いていく、ダビデの中には、単に王として君臨するためでなく、神によって立てられたという信仰はあったでしょうが、それを為していくうえで、神さまを利用しようとする、そういう思いがダビデの中になかったとは言えないと思います。

ウザが打ち殺されたこの出来事は、そのようなダビデに、神の箱に対する、そしてその真の主体であられる神さまに対するおそれの思いを呼び起こしました。911節には、「その日、ダビデは主を恐れ、『どうして主の箱をわたしのもとに迎えることができようか』と言って、ダビデの町、自分のもとに主の箱をうつすことを望まなかった。ダビデは箱をガト人オベド・エドムの家に向かわせた。三か月の間、主の箱はガト人オベド・エドムの家にあった」とあります。先ほど読んでいただいたように、その後最終的には、12節の最後にあるように、ダビデの町、これはエルサレムのことですが、エルサレムに神の箱を移してはいます。しかし、それにあたっては、ダビデは、雄牛をいけにえとして献げ、17節のように天幕の中に運び入れるにあたっても、焼き尽くす献げ物だけでなく和解の献げ物まで献げています。これは、最初の時のダビデとは大きく変わり、主とその箱に対する恐れの思いを持っていることがわかります。ダビデという人は、大きな罪も犯す人でした。決して完璧な人間ではなかった。弱さを抱えた人物です。しかし、彼は、その弱さや欠けを認め、心を変える柔軟さを持った王でした。

さて、そう聞いても、納得がいかない気持ちを持たれる方も多いでしょう。ダビデはそれでいいだろう、でも職務に忠実であろうとして命を奪われたウザはどうなるのか。これは本当に難しいところです。このように話している私にも、完全に納得は出来ないものがあるのは事実です。しかし、示されたことがある。それは、この話がここに、先ほども申し上げたように同じことが歴代誌上13章にもありますが、これが聖書に記されていることの意義は大きいと思います。それは、神さまは、人間の手によって守られるものではないということです。こんなことを言うのはとても酷だし、私だってウザの役割を仰せつかっておれば、同じことをしたのではないかと思います。しかし、この時、神の箱が牛から滑り落ちたところで、どうなるものではない。週報巻頭言にも記していますが、民数記415節には、聖所とそのすべての祭具、神の箱は幕屋の聖所の奥に安置しておくものですから、ここでの祭具にあたるのですが、それに触れることは死を意味したのです。前後しますが、その巻頭言には、出エジプト記25章の神の箱の制作に関しての律法の規定が記されていますが、そこには、箱を担ぐための棒と環のことが書かれています。これも、神の箱に触れることがないようにせよ、との意味であります。神の箱の運搬の働きを命じられたウザはこの規定、律法を知らなければならなかった。いや知っていたと思います。

と、言われても、ウザに同情したくなるところですし、彼にも家族はいたでしょうから、そのことを思うといたたまれない思いになります。しかし、このことは私たちが神さまとの関係を築いていくにあたって、言い換えれば神さまを信じる信仰生活を行なっていく上には、とても大切なことだと思います。それは、私たちは神さまに対しては、それほどの恐れの思いを持たなければならないということです。馴れ合いになってはいけないということです。職務に忠実であろうとしたウザですから、決して神さまとの関係を馴れ合いなものにしたのではないでしょう。でも、神の箱を守るとはどういうことでしょうか。また、神さまを人間が守るとはどういうことなのでしょうか。ウザにはとても酷なことに思えますが、神の箱を、神さまを、人間が守ろうとすること自体が思い上がりであり、別な言い方をすればそれは、神さまを、人間が守らなければならないような存在へと貶める、神に対する冒涜へとつながるのでしょう。

今日の説教タイトルは、変更して「恐れよ」としました。「エッ恐れるな」やないのと思われる方もあるかもしれない。確かに、聖書には「恐れるな」というメッセージで満ちています。しかし、聖書のどこにも「神を恐れるな」とは書かれていません。それらはみな、神以外のものを「恐れるな」ということであります。

私たちは、本当に多くのものを恐れます。恐れからの解放こそが救いと平安を得るカギだとも言えると思います。恐れからの解放の道、それはただ一つだけです。真に恐れるべきお方を恐れることです。本当に恐れるべきお方を恐れるならば、それ以外の一切のものを恐れることはなくなるのです。

マタイ102628節のイエスさまの命令の御言葉です。新約聖書18頁「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

私たちが恐れるべきは、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方です。それ以外の私たちに恐れを感じさせるものは、「体を殺しても、魂を殺すことのできない者」に過ぎません。ウザの死は本当にショックですし、神さまに対してのいたずらな恐ろしさを私たちに与えかねない出来事ではあります。しかし、ウザの時代と私たちとでは決定的に異なることがあります。それは、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とお命じになる方が、私たちの弱さや罪を全部身に受けて死んで下さったことです。私たちもウザのように神さまを自分の手でどうこうしようとする罪を犯してしまうかもしれません。しかし、たとえそうしても、私たちはウザのように命が奪われることはないのです。イエスさまがその罪の身代わりとなって死んで下さったからです。

そのイエスさまの「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」という命令にたって、神さまとの関係を築いていきたいと思います。お祈りをいたします。

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明日の礼拝へのご案内

高知伊勢崎キリスト教会

2012年7月15日 主日礼拝

午前10時半~12時

宣教「神の箱とご神体」

聖書 旧約聖書
    サムエル記下6章1~23節

牧師  平林  稔

契約の箱とも呼ばれ、モーセがシナイ山で与えられた十戒が刻まれた石板が収められた箱のことです。出エジプト251016節には、この箱についての規定(律法)が記されています。

「アカシヤ材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。箱を担ぐために、アカシヤ材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。棒はその環に通したまま抜かずに置く。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。」(出エジプト記251016節)

ここには、箱の作成の指示だけでなく、担ぐための棒についても規定されています。ちなみに、“アンマ”は長さの単位で、「ひじから中指の先までの長さで、約45センチ」と言われていますから、この箱のサイズは、縦112.5センチ×横67.5センチ×高さ67.5センチとなり、決して小さなものではないことが分かります。内外とも、純金で覆うのでは、重さはどうなのでしょうか。

この箱の運搬に関しての律法は、民数記4章に記述があります。

「アロンとその子らが、宿営の移動に当たって、聖所とそのすべての聖なる祭具を覆い終わった後、ケハトの子らが来て運搬に取りかかる。彼らが聖なるものに触れて死を招くことがあってはならない。臨在の幕屋からケハトの子らが運ぶべきものはこれらのものである。」(民数記415節)

サムエル記6章のこの話は、ウザが主の怒りに触れて打たれ、命が絶たれたことから、“ウザ打ち”と言われる受け取り方の困難な箇所です。牛がよろめいたために、手を伸ばして神の箱が落ちないように守ったウザの命を、主はどうして奪われたのか、明日はそのことをご一緒に聖書から聞いていきましょう。

どなた様でも
ご自由に礼拝にお越し下さい。

 高知伊勢崎キリスト教会

  高知市伊勢崎町3-8

   ☎088-875-5983

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今日の一曲 「You know I'm no good」

破れ牧師のブログだから

園子温に続いて、

こんな人の曲でもお許しいただけるかな。

その名も Amy Winehouse

Winehouse って、すごい名前だ。

彼女、見ての通り、かなりスキャンダラスな人物で、

ドラッグとアルコール依存症のリハビリ施設にも、
お世話になっている。

2011年7月には、自宅で遺体で発見されたが、

その正確な死因は発表されていない。

享年27歳。

だが、彼女のパンチのきいたヴォーカルはなかなかのものだと思う。

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園子温監督のこと

今の日本映画界で最も旬な監督として、一人を挙げる
なら、間違いなく園子温であろう。

園子温  “その・しおん”と読む。

どうやら、本名らしい。

私は最初の二文字から、女性をイメージしていたが、
50歳の男性だ。

“シオン”という名前からも、また彼の代表作の一つである2009年公開の『愛のむきだし』のように、カトリック神父の家庭を舞台にしていたり(※)、昨年の最大の話題作と言ってよいであろう『冷たい熱帯魚』でも、教会風の建物やマリア像、十字架が頻繁に出てくることなどからも、この監督の精神的背景にキリスト教があることは明らかだとは思っていた。
(※ 妻と死別した男性が神父になるという設定)

上述の『愛のむきだし』の記事にも書いたことだが、
監督本人のコメントによると、

「かつてクリスチャンになろうとして教会に通ったことがある」とのこと。

ただ、誤解なきように、

彼の作品は、まったく普通に想像するキリスト教的作品では全くないから、ご覧になる方はご注意されることを、申し上げておく。

『冷たい熱帯魚』に関しては、いつかまとめて記そうとは思うが、猟奇的な殺人鬼による殺人描写やその殺した死体を風呂場でばらばらに切り刻む映画だし、

『愛のむきだし』は、盗撮、アダルトヴィデオ、同性愛がテーマだし、

『自殺サークル』では、集団自殺や人間の皮をつないだバームクーヘン状の巻物が出てきたりする。

しかし、彼の描く映像の鋭さは一級品であり、
単なるキワモノの映画ではない。

彼の映画のテーマは、家族の崩壊であり、
人と人とをつなぐ絆、特にそれが希薄になった
中で生きる人間の姿を描く。

偉そうに書いたところで、

私はまだ『紀子の食卓』も『自殺サークル』も、

昨年の『恋の罪』も未見であるので、

これ以上は書けない。

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沖縄が危ない!

6月29日の記事にも書いたが、

沖縄のヤンバルの森に建設された“ヘリパット”にオスプレイが配備されようとしている。

元々、この“ヘリパット”建設に対しても、住民を始めとする人々による反対運動は起こってきたし、更に、このヘリパットを拡張しようとする工事に対しても、工事の差し止めのための24時間体制の監視は今も続いている。

しかし、沖縄防衛局は、今月に入って、監視員の配備が手薄になる時間帯を狙って、重機の運び込みを強行している。

オスプレイは、これまでも8回の墜落事故を起こし、
乗組員が計36人命を落としている

だいたいが、この高江地区の建設に際しては、“ヘリパット”とのうたい文句だったのに、それがこの期に及んで、オスプレイを配備しようとしている。

ヘリパットなら良いという問題ではないが、これなら、

“オスプレイパット”だ。

オスプレイは、断じてヘリコプターではない。

これは、垂直に離着陸する飛行機であり、輸送機だ。

このあたりの沖縄防衛局のやり口は
本当に卑劣である。

そして、酷いのは、米軍と防衛局だけではない。

このヤンバルの高江地区の問題を、

ヤマトのマスコミは黙殺を決め込んでいる。

沖縄のテレビ局、新聞(琉球新報・沖縄タイムス)
は当初より、ずっと記事として報道しているが、

ヤマトのマスコミはまっっっっっったく
取り上げようとしない。

原発の問題も然りだが、

日本のマスコミは本当に腐りきっている。

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旧約聖書の勧め

キリスト教は、イエスをキリストと信じることが根幹にあるのだから、「旧約を読まなくてもよい」は極端としても、知らずしらずのうちに、「新約ばかりを読んでしまう」ことになりかねない。礼拝においても、旧約からの説教が極端に少ないことがありはしないか。

イエスをキリストであると直接的に記しているのは、新約聖書である。キリストの誕生が、キリストの十字架が、キリストの復活が記されているのは、新約聖書、中でも四つの福音書である。そして、大工のせがれのイエスを通して、神の贖いのわざが成し遂げられたことを表したのも、新約聖書のパウロの手紙等である。

紀元2世紀の小アジア出身の人であるマルキオンは、「旧約の神は、怒りの神で、嫉妬する神であり不完全だ。旧約の神が造った世界は苦しみに満ちており、そこには愛も恵みもない。一方、イエスの示した神こそが、真の神であり、慈しみの神だ」と唱え、キリスト教徒にとって、旧約は必要無いと考えた。そして、ルカによる福音書と使徒言行録とパウロの手紙のみを聖書とした。

これがマルキオンを師とするマルキオン主義である。彼の誤りは、愛と裁きを相反するものと捉えたことである。愛は単なる優しさではないし、厳しさのない放任でもない。愛には、罪や間違いを正す厳しさがなければならない。

それを記してくれているのが、教えてくれるのが旧約聖書だと思う。だから、旧約を読まない信仰は、薄っぺらなものになりかねない。「優しさという甘え」の中に埋没しかねない。自分に合うものだけをえり好みする信仰になりかねない。

イエスさまを通してみ業を成し遂げて下さった神さまは、そんな薄っぺらい方であろうはずがない。その世界を知るためにも、私たちは旧約聖書を読む必要があると信じる。

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『フルスイング』

2008年に放映されたNHK土曜ドラマ

30年間にわたってプロ野球のバッティングコーチを務めた高畠導宏氏が引退後に福岡の高校で、1年間教師をした実話を基にしたドラマ。

同年の放送文化基金賞のテレビドラマ番組賞、主演の高橋克実がギャラクシー賞を受賞している。

なかなか見応えがあった。

中でも第四話の『キャッチ』はお勧め。

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ニルソン 『Without you』

懐かしいなあ ニルソンって、
ジョン・レノンとも親交があったって

何故だかわからないけど、この曲のことを思い出した。
初めて聞いたのは中学の頃かな?

今回、調べてちょっと驚いたのは、
この曲、ニルソンのオリジナルやなく、
バッド・フィンガーの曲だったってこと。

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信仰が無くならないように

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」 (ルカによる福音書22章31~34節)

ペトロがイエスさまを知らないと三度否認するのを予告した有名な記事であるが、他の福音書記事と違って、このルカ22章には、31節、32節のイエスさまの言葉が添えられている。

このうち32節の
「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」

は、イエスさまのペトロの信仰に対しての執り成しとして、
私たちに大きな慰めを与えてくれる。

イエスさまは自分のことを否認することをご存じの上で、
彼のために祈って下さった。

この時のペトロは、自分は最後まで従って行けると思っていた。

「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」

と言っている。

しかし、イエスさまは彼が従って来れないことはご承知だったし、
彼にそこまでの行動を求めておられなかったんじゃないか。

では、この時の「信仰が無くならないように」との
祈りの真意は何だったのか。

この前のところで、弟子たちは自分たちのうちで誰が一番偉いかと議論している。ペトロを含めた彼らの心の中には、自分たちはここまで、自分たちの信仰で、主に従って来たのだとする自負があっただろう。

それは言い換えれば、自分の信じる力というか、信仰により頼む
思いがあったのではないか。

イエスさまは、そんな信仰を求めておられたのではないだろう。
イエスさまは、弟子たちに強さを求めてはおられなかっただろう。

イエスさまがペトロに求めておられる信仰は、
主に頼る信仰、主に助けて下さい、と求める信仰。

その信仰を無くさないようにと祈られたのではないかと思う。

イエスさまは、私たちにも、ご自分を頼らずに生きていける強さを持つ信仰者になることを望んではおられない。そうではなく、たとえ倒れてしって、ピーピー泣き叫んでも、

主よ、助けて下さい

と、ただイエスさまにすがる信仰を求めておられるのではないだろうか。

「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 」(コリント信徒への手紙二12章9~10節)

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命の問題

1日には大飯原発3号機は再稼働されてしまった。

十分な審議もなされないまま、特に大飯原発敷地内を走る破砕帯(はさいたい)と呼ばれる軟弱な断層のことも、原子力安全・保安院もさすがに「追跡調査」の必要を認めたが、関西電力側は、何一つ十分な対応しないまま、再稼働に踏み切った。

政府は、これからどんどん原発を再稼働させようとしている。大飯に続いては、愛媛の伊方原発、そして、北海道の泊原発だろうと言われている。電力会社は、先日の株主総会では、さすがに東電は、論調が控えめだったが、中電は、活断層の真上にあり、老朽化が著しい、あの浜岡を再稼働させたいと、耳を疑うような発言をしていた。それは、ただ、会社の経営を維持するため。

国民の命がどれだけ危険にさらされるかは、二の次にして…

でも、ここに至って、ついに、

市民が立ち上がりだした

首相官邸前の様子の映像を見ていてすぐに気づくことだが、今回集まった人の中に、政党や労組のノボリが目につかないこと。
報道ステーションで鳥越俊太郎氏は、
一本も見られないと言っていたが・・・

これまでこうした“デモ”活動には、関心を示さなかったであろう、女性を中心とする若い層の人たちが、会社帰りに、また保育園に子どもを迎えに行ったその脚で、首相官邸前に集まったのだ。

あのアラブの春の市民革命は、一人の青年のツイッターによる呼びかけに始まったと言われているが、今回の官邸前の動員も、従来の組織によるものではなく(全くなかったとは思わないが)、フェイスブックやツイッター等による、ネット発信による呼びかけが動員したようなのだ。私のところにも、高知の脱原発の方たちだけでなく、東京の知り合いの高校生からもフェイスブックの呼びかけがまわってきた。

私は常々、市民が声を上げることの大切さを感じていた。今回の原発を巡る動きにおいては、政治家と官僚、そして電力会社を始めとする利権にむらがる財界だけではない、東京大学を筆頭にした学術界、そして新聞・テレビ等のマスコミがつるんで、何が何でも、原発をやめようとしない動きを起こした。

いわゆる 政官財学報

この5者が結託した。

この5者に対抗できるのは、国民 市民のみ

一般市民が街に出て、声を上げる。自分の意見を様々な形で表明することが、この動きを止めることのできる唯一の道だと確信している。

“闘い”は始まったばかり。

再稼働された現状においては、この市民のうねりは、大きくなることはあっても、下火になることはない。

20万の動員でも、再稼働は止まらなかったが、これを30万、50万、
そして100万人のアクションを起こせばよいのだ。

今回の首相官邸前にしても、先々週の金曜日に主催者発表で、1万4年に集まったことは黙殺したマスコミも、さすもがに29日の20万になると、報道し始めた。これをもっともっと大きくすることが、

再稼働を止め、原発に頼らない国にする道だ。

教会もその中に入らねばならない。この原発のことは、いわゆる“社会問題”などではない。

これは命の問題なのだから

神さまが造られた人の命がないがしろにされているのだから。

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まさか、こんな時に受け身が・・・

左手の腫れも痛みも日にひにとれていっている。

心は大飯に向かっていたのだが、どうも神さまが止めたよう。。。

さて、ある人に、事故の経緯を話していて気付いたことがある。

言われてみれば、転んだ時に、なぜ手の甲を打ったのかってこと

その人が言うには、「後ろに転んだのなら、そのまま手の平を下につくのでは」と言うのだ。

スリッパの裏がツルっと滑っての転倒で、右手にモノを持っていたか
ら、左手だったのだが、確かに言われてみれば、手の甲をつくのは
不自然に思えなくもない。

それで気づいた。柔道の受け身。

実は、私の通った高校は柔道が正課で、3年間週一の必修だった。

そのころも、駄目だったし、その後も全く続けてはいないのだが、
最初の頃、延々と受け身と股割りをさせられたものだった。

股割りの方は、今ではまったくできなくなっているが、受け身は
今回のような咄嗟の時に反応したのだろう。

手の平をつくのと、手の甲で受け身をするのと、どちらが良かったの
かは、一概には言えないとは思う。受け身とは言っても、“ビシッ”
と甲を打ちつけたのではないとはいえ、甲の方が危ないのかも
しれないが、手のひらから行くと、肘の骨折ということもあり得たかもしれない…

まあ、どちらが良かったかは分からないがだい、でも、もし、
本当に受け身の姿勢を取ったのだったら、

高校時代に身につけたことが、約40年後にも、
体が覚えていたことになる。

若い頃の習慣や覚えたことって生きてるんだなと思わされた。

ウン、やっぱり、教育は大事だわ。

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うーん、残念!

本日早朝に帰って来る予定であった妻は、水曜日に転んでケガをし
たらしく、戻りを延期した。

元々、月曜の朝には、高知を発つ予定だったから、キツキツのスケ
ジュールだったし、彼女の体調を考えれば良かったのだと、
納得しようと思うが、寂しさもちょっぴり…

水曜の福岡は大雨で、荷物を運んでいる際に転び、
足の爪を剥がしたとのこと。

ありゃりゃ、
その三日後の昨日、私も転んで、その際左手で体を
支えようとして、左手の甲を床で打ち、腫れてしまったのだった。

何だか、奇妙な偶然に驚いた。

実は、妻の母に懇々と「転ばないように」と注意をしていたのに、
娘夫婦が、転んでいては仕方がない。

私の左手であるが、一晩たって、少し腫れも痛みはひいたものの
まだ、不自由さは残っている。車の運転は、出来なくはないが、
ちょっとしづらい・・・

右手でなくて良かった…と思っていたら、
実際こうなってみて気づいたのだが、
左手って、メインに使うことはあまりないが、
右手の動作(作業)を支えたり、補助的に使っているの
が多いことが分かった。

そんなこんなで、礼拝が終わろうとしていた頃、

外京さんから電話で

「今から、大飯に行くが、ドライバーとして
行ってもらえないか」

との打診。

うーん、手がこんな状態でなかったら、行くのになあ

残念!

昨夜から、現地は大変な状況らしく、
機動隊まで出動しているとのこと。

妻のけがは、神さまがストップかけられたのだなと、
すぐに思ったけど、
私のけがも、神さまからの働きかけなのかな・・・

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