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私のこだわり② “純パ党” その壱

久々の「私のこだわり」。
読者の皆さま、お待たせしました、笑い)。

これは、こだわりを通り越したパ・リーグマニアの私の“お遊び”記事。パに興味のない人や、もう一方のリーグ好きの方は、不愉快になられることもありうるし、全くひとりよがりのものであるので、読まれないことをお勧めする。また、“牧師”のブログ を期待しては、読まないように願いたい!

今までもちょこちょこ書いてきたが、私のプロ野球観戦は“パ”一筋。わき目もふらず、45年以上パ・リーグを愛し、見続けてきた。
実際、今ならいざ知らず、今から20年以上前までは、こだわりどころか頑なさがないと、パ・リーグは見れなかった。というのも、テレビでパの試合が放映されることはめったになく、ニュースでも試合結果のテロップが流れるだけ。試合の模様はスポーツニュースでもほとんど流れない。それほど、パは注目されなかったのだ。

原点は母親。
7年前に召天した私の母親は丹後の峰山町(現京丹後市)の出身で、昨年まで楽天の監督をしていた野村克也と同郷だった。いや、正確に言うと、野村は高校は峰山高校だが、生まれは峰山町の隣りの網野町。母親からそのことを教えられ、私は物心つく“前”から、知らず知らずのうちに、野村克也が私の憧れの選手になっていた。昭和30年代、王・長島の全盛時代のことである。

ゆえに、その頃は野村が所属していた南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)をよく分からずに応援していた。

私の実家は京都市内で、西京極球場(現在は“わかさスタジアム”というらしい)まで、阪急電車の各駅停車で三つ先の界隈に住んでいた。この球場は、当時は阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)の準本拠地球場で、年間数試合の阪急戦が行なわれていた。私の父はタイガースファンだったが、試合がある度に私をこの球場のパの試合に連れて行ってくれた。この頃の阪急は、名匠西本幸雄監督に率いられ、お荷物球団から常勝チームに転じていた。68年のドラフトで、山田、加藤、福本の三羽烏を獲得してからは、黄金時代に入っていた。投手では山田がエースとして(史上最強のサブマリン 通算284勝は下手投げとしては最多勝)、福本と加藤は「福本が四球で出塁し盗塁、大熊のバンドで三塁に進み、加藤の犠牲フライでノーヒットで得点」と言われるほどで、余りにも強かったので、生まれつきの判官びいきの性格から、私は阪急を応援することはなかった。後に、73~82年までパ・リーグは前後期の2シーズン制を採用していたが、少しでも話題になって注目を集めようとしたことが理由とされているが、実は阪急が強すぎて130試合(当時は今より少なく26回戦の総当りだった)の1シーズン制のトーナメントだと、阪急以外のチームが優勝出来ないから、とも言われている。それほど、阪急ブレーブスは強かった。

それもあってか、この頃のパは本当に人気が無かった。“野球”ファンの大半、いやほとんどは、もう一方のリーグ、あの“人気”チームしか観ていなかった。平日のナイターで1万人を超えることはありえなく、土日やGW・夏休みで、いくつかの条件が整う時にたまに1万人入るかどうかだった。と言っても、今と違って実数は公表されていなかった。発表される人数の半分近くが実際には球場にいない試合もあった。というのも、どの球団も年間予約席っていうのがあり、それを入れての観客数が発表されていたからだ。実際に球場で観戦している客数ではないのだ。週刊漫画アクションって雑誌の企画で、川崎球場の消化試合で、実際球場にどれだけの観衆がいるのかを、双眼鏡で数えたことがあった。確か、公表数は3000人であったが、実数は約200人だったそうだ。

今では笑えるような話を紹介する。これは全部実際に行なわれたこと、あったこと。当時いかに不人気であったかが分かるであろう。他にもあるだろうが、私の記憶している中で特記すべきエピソードを3つ。

①日拓ホームフライヤーズ七色のユニフォーム

日拓ホームと聞いて分かる方は、かなりの野球通、または純パ党だ。前身の東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)から経営権を譲り受けた不動産会社の日拓ホームが、1973年の1年間だけ保持したチーム。

当時は2シーズン制で、前期は基本的には東映時代のものを用いたが、不人気解消の一助になればとのオーナーの発案で行なわれたのが七色のユニフォームの着用。七種類の色等は
・全身オレンジで、袖にライン入り
・肩から袖の下にオレンジのライン入り
・上着が紫色、下が白色
・袖がブルーで、赤色のロゴ
・全身黄色、肩・パンツに黒色のライン
・全身青色、肩に太いライン、パンツラインは白色
・全身黒色、袖の下からパンツに太い黄色のライン

と何とも奇抜なものばかり。今年、西武ライオンズは太平洋クラブライオンズの復刻ユニフォームを着用して試合を行なっていた。太平洋クラブについては、私は贔屓チームであったのでいずれ記すが、確かにこのユニフォームも派手ではあったが、ユニフォームをワンシーズン(正確には後期の65試合)で7種類も用いたのは、この時の日拓ホームフライヤーズだけで、前代未聞のことだと思う。ただ、当時のローテーションピッチャーだった新美敏によると「どれかは忘れたが、一つだけ着用しなかったのがある」とのこと。

②人馬特別レース

不人気阪急の観客動員は本当に寂しいものだった。主催試合の平均観客数は5000人以下。実力はピカイチで、名選手も多く輩出したが、玄人好みの選手が多かったのもマイナスに働いたのか、本拠地の西宮球場はいつも閑古鳥が鳴いていた。この球場はとても大きく、収容人数は4万人以上で、内野には二階席もあったから、客の入りの少なさが一際目立った。

80年代前半の阪急には1番福本、2番簑田という俊足コンビが活躍していたが、そこに年棒1億円で俊足の現役大リーガーのバンプ・ウィルス(登録名は“バンプ”)を獲得したことで、観客動員アップのために球団が企画したのが、表題の「人馬特別レース」。83年4月30日のこと、曜日までは思い出せないが、土曜か日曜だったと思う。

私はその日のスポーツ新聞(日刊スポーツ?)の1面トップに、この「人馬特別レース」の記事が、競馬の出走枠のようにして載ったのを覚えている。この頃、関西のスポーツ紙といえ、阪急の話題が一面トップを飾ることは皆無だった(いつもタイガースのネタばかり、今もかな?)。

そのような宣伝効果もあったのか、当日の西宮球場は、いつもの数倍の28000人(これも主催者発表だが、実際かなりの観客が入っていたのは確か)という、当時としては考えられない“超”大入り。バンプと福本、そして簑田とサラブレットに、外野の芝生を60メートルを走らせようとしたのだが、簑田は急遽直前になって「出走」取りやめを申し出た。

さて、そのような“鳴り物入り”の企画だったが、結果は、と言うと、サラブレットはスタート直後にゴールとは全く別な方向へ走ってしまいレースにならず、バンプが1着でゴール、僅差で福本の順だった。
実は、この年のバンプは、全くの期待ハズレで、怠慢・手抜きプレーが目立ち、この年1年だけで解雇された。試合では全力疾走することがあまりなかったようなのに、この時ばかりはハッスルしたようだ。

不人気阪急を象徴するイベントだが、欠場した簑田はかなり怒っていたとも聞く。いくら人気がなかったとはいえ、客寄せのために、馬と競争させようとされたのだから、簑田の気持ちも分からなくはない気がする。

③パ・リーグ名物ヤジ合戦

パの試合の行なわれるスタンドは、いつもガラガラだったが、私設応援団は熱かった。

特に阪急、近鉄、南海の関西私鉄3球団の応援団は本当に熱心だった。70年代~80年代(それ以前もだろうが、さすがに私がよく通ったのは中学生以降だから、この頃のことしか書けない)は、今のように鳴り物入りの応援はほとんどなかった。あっても、トランペットが一つ(楽器はどう数えるのだろうか・・・)と太鼓程度。その分、ヤジが凄かった。

中でも、阪急ブレーブスの私設応援団長の今西さんという“おっさん”のヤジには、いつも楽しませてもらった。この方、阪急電車の正雀という駅で電車の塗装工の仕事をされていたらしいが、応援の声はいわゆる“ダミ声”。だから声がよく通る。付けられたあだ名が “八百屋”というから可笑しい。

私は、阪急を応援していなかったので、いつも3塁側の内野席で観戦したが、客の少ないこともあるのだが、いつも今西さんの声が聞こえてきた。あの人、おそらく阪急の主催ゲームは全て観に来られていたのではないだろうか。それに、大阪球場(南海)や、藤井寺と日生(近鉄)でも、あのダミ声は聞こえていたから、ヴィジターのゲームにも行っておられたのだろう。自分は持ち前のダミ声でわめくのだが、相手の3塁側の応援に対しては

“うるさ~い 野球は静かに観なさい”

と応戦する。実際、この頃の阪急は憎らしいほど強かったこともあり、このヤジに対しては、相手側、特に近鉄バファローズの応援団は数人がかりでそれに反撃するのだが、今西さんはそれに対して一人でやり合っておられた。

特に印象深く覚えている試合がある。大阪球場での南海-阪急戦のこと。
80年代に入って、阪急の全盛時代は終わり、広岡が監督に就任してからは、西武ライオンズの黄金時代。秋山、清原、工藤、渡辺などの人気選手も多く、それまでのリーグを背負ってたっていたパの私鉄3球団は肩身が狭くなっていた。80年代の半ば頃、86年か87年だったと思う。両チームともシーズンに入ってからも調子が上がらず、最下位争いの試合だったと記憶している。

今西さん
“なんでこんなに弱たんになってもたんや”
そして自嘲気味に
“べべた べべた べべた~”(べべた=どん尻、ドンベのこと)

この時の大阪球場は、いつもながらにガラガラ、今西さんの声は一塁側は言うに及ばず、ライトスタンドや球場全体に響き渡っていた。

順位の興味も薄らいでしまったのであろう。当時の南海の不動の四番であった門田に向かって

「門田~ 野球なんか もうどうでもええ、ブタまん食べよ~一緒に食べよ~」

すると、門田もこれに答えて、声は分からないが、笑いながら“こっちにもって来い”とゼスチャーで応酬したのには笑った。
ガラガラで、鳴り物応援がなかったゆえのエピソードだ。

私は、今のような鳴り物入りで、一回の表から九回の裏まで、画一的に同じに応援するスタイルが嫌いだ。メリハリも何もない。うるさいし、応援を強要されるのもイヤだ。

それに比べると、この頃の“古き良き時代”のパの応援は良かった。球場は閑古鳥が鳴き、スタンドも今のように綺麗でもなかった(実際、この頃の球場の設備は相当酷かった。球場によっては、トイレが男女共用だったりもした)が、でもこの頃のヤジ合戦には、味があった。中には、決して教育上よろしからぬものもあったが、人間味を感じたものだった。

と、まあ、私がパ・リーグに関して、書き出したら止まらない。いずれ、続きを何度か記すが、私のようにパのみを愛するような変わり者、しかもここ十数年でなく、20年、30年、いや50年パを愛し、パのみを観戦してこられた輩はいる。それが

純パの会

これについては、次回記そうと思う。

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コメント

   ありゃりゃ、じゃあ、ヒラリンと一緒じゃないですか 
私は箕島まで追っかけしたことはないですが、島本が当時の野村監督の「島本人気で人気回復図るから南海に来てくれないか」とか何とかいう言葉に従って入団した時はうれしかったなあ
結局南海では芽が出ず、その後近鉄に移って西本監督に育ててもらいました。彼も“パ一筋”でした。
島本が今何しているか知ってますか? 大阪で野球教室しているそうですよ
88年10月15日の大阪球場のラストゲームを観に行き、涙しました。その後、ロッテファンに。。。
ホンマでんなあ、こんな話が出来るとは思いもしませんでした
その意味では、この記事書いて良かったです。

投稿: ヒラリン | 2010年8月25日 (水) 06時31分

あのぉ・・・歳が分かってしまうのですが、実は島本を追っかけて友人と箕島に行き、実家のお米屋さんで(島本は留守でしたが)御馳走になりました!!それが記事になったの、「東京から女子高生が押し掛けてきた」
その後、南海フォークスのファンになったのでして・・・(汗)
いやぁ~、こんな話しが語れるなんて、嬉しい!!

投稿: しるべ | 2010年8月24日 (火) 21時36分

しるべ先生ご訪問&コメント感謝します。
へ~え、箕島の追っかけですが、それは石井-嶋田の頃かな?
実は、私も箕島高校、特に尾藤監督の大ファンでした。東尾投手の頃のことは後で知ったのですが、元祖甲子園アイドルの一人の島本講平の大ファンでした。

投稿: ヒラリン | 2010年8月24日 (火) 12時02分

初めてコメントします、しるべです。

ヒラリン先生の野球ファンは筋金いりですね!!
しるべは神奈川県人なので横浜ファンでスタジアムには息子とよく行きます。
大リーグも何回も観戦しました

少女時代は箕島高校まで追っかけしたこともありましてスポーツ新聞に載ったこともありました
その頃の少女では珍しくパ軍の試合も毎晩ラジオで聴いていましたよ

投稿: しるべ | 2010年8月24日 (火) 11時45分

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