バプテスマ
教会の一連のクリスマス行事も終わったが、21日のクリスマス礼拝ではバプテスマ式を行なった。子どもの時から、いや母親の胎に居るころから教会に通っている小学校5年生の男の子が今回の受洗者。感謝!
バプテスト教会では、浸礼のバプテスマを行なう。これは全身を水に浸すことで行なう。バプテスマの形式としては、これ以外にも、頭に水を注ぐ潅水礼、水に濡れた手で頭に押し付ける滴礼があるが、バプテスト教会はその名前が示す通り、全身を水に浸す浸礼を大切にしてきた(バプテスマの語源である“バプティゾー”《浸す》から)。そのための洗礼槽(バプテストリー)も教会には設置されている。
私はバプテスト教会ではなく、単立の教会で洗礼を受けたが、その教会にはバプテストリーはなかった(それどころか、その頃は会堂もなかった)。しかし浸礼でバプテスマを実施していたので、鴨川の上流で受けた。礼拝後の午後に車に分乗して移動し、着替えるためのテントを立て、行楽客の方たちの前でのバプテスマだった。
先にも述べた通り、バプテスト教会は浸礼を大切にしてきた。というより、浸礼にこだわってきた。そのため、バプテスト教会の中には、浸礼を絶対視し、滴礼のバプテスマを認めない教会がある。浸礼の形式としてバプテスマにこだわるだけでなく、浸礼のバプテスマを再受浸することを求めるのである。私はこれは行過ぎた教派主義に陥った考えだと思う。滴礼のバプテスマを認めないということは、その教会を認めないことにつながるからだ。
浸礼か滴礼か潅水礼か、それはあくまでも形式に過ぎない。教会がバプテスマを授けるのではないし、また教派がバプテスマを授けるのでもない。教会や牧師はその仲立ちをしているのに過ぎない。バプテスマは父と子と聖霊の名によって授けられるものである。ある牧師は、教会との対話の中で「水の量の問題だ」と言い切った。私もその通りだと思う。
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