『祭りの準備』 ~ナカムラングラフィティ
『祭りの準備』 ~ナカムラングラフィティ
個人史的には、私の高知の原点とも言える記念すべき映画である。私と高知との出会いであり、私の高知のイメージを形作ったのもこの映画だ。結果的に高知出身の女性と結婚し、こうして高知に住み、高知の教会で牧会することになったのだから不思議だ。そのきっかけとなったのはこの映画だと考えると、感慨深い。これこそ神の導きなのだろう。
アート・シアター・ギルド(ATG)の全盛時代の作品。中学だと思っていたが、1975年の作品だから高校生だったことになる。当時関西では、ATG作品は東京よりも遅れて公開されていたので、私が観たのは1976年だと思う。キネマ旬報誌で、ベストテンの2位に入ったこの作品を知り、愛読していた『ロードショー』の紹介文を読んだのが、実質的な『祭りの準備』との出会い。その紹介文が印象深く、是が非でも観たいと思いアンテナをはっていたので、タウン情報誌を通して大阪で公開されることを知り、胸を膨らませて、大阪まで観に行った。高校生だったので、私(当時京都在住)の通常の映画鑑賞のエリアを越えてはいたが、大阪まで遠出をしたのだった。あれ以来、劇場でだけでなく、Video・DVDを含め何度鑑賞したことか。ある意味、私の人生に最も影響を与えた映画だと言える。
高知が舞台と言っても、これは幡多の中村。日本を代表する脚本家である中島丈博の自伝的小説が原作。自身が脚本も手がけている。私はずっと、中島は中村の出身だとばかり思っていたのだが、何と生まれは京都で、子どもの頃に中村に疎開したのだという。地元の中村高校を卒業後、映画同様、金融関係に3年間勤めた後に、シナリオライターを目指して上京したのだそうだ。タイトルの『祭りの準備』とは、人生と云う“祭り”に飛び出していくための、青春期の準備のことだろう。なかなかうまいネーミングである。今観ると、思いっきり時代掛かっているが、当時の私は、この映画に描き出されている高知(その頃の私には、中村も高知も一緒だった)という未知の土地に対して非常な興味と憧れに近い思いを抱いたのだった。
主人公楯男(江藤潤)の父は、女のところを転々として家には寄り付かない。祖父は、ヒロポンで精神に異常をきたした隣家の娘に入れあげるが、出産と同時に頭がはっきりした後に疎んじられたことを苦にして首をくくって死ぬ。娘の母や兄は、彼女を野放しのようにしており、毎夜海辺で村の男たちに代わりがわりに抱かれている。楯男も、祖父もその一人。その兄たちは盗っ人兄弟で、兄が“おつとめ”に行っている間は、弟がその兄嫁とよろしく関係し、最後に弟は強盗殺人を犯して、逃走の身となる。楯男の母は、旦那に愛想をつかしており、よりを戻す気持ちはさらさらなく、息子のみを生きがいとしている。幼なじみらしき憧れの女性(竹下景子)がいるにはいるが、彼女には思いを寄せる都会から来たオルグがおり、彼の悶々とした思いは行き場を失っている。
妻の実家で母や祖母とヴィデオを観る機会があったが、祖母は「高知はこんなやない」と言い、母親は無言…妻は「これは幡多やき、まだ上品、土佐はもっと激しい」と言った。実際はどうだろうか。私は幡多を知らないので、そこは分からない。何ともハチャメチャな環境の中で、主人公は故郷を捨て、そこから飛び立とうとしてもがいている。とにかく登場人物のキャラクターがみんな濃い。あっさりした人間が一人もいない。みんな一度会ったら、忘れないほどの濃いキャラクターばかり。
隣の盗っ人の弟を強烈な個性で演じた原田芳雄は、本当にはまり役であった。黒木監督の前作『龍馬暗殺』でも、異色の坂本龍馬を熱演し、その後の黒木組の常連となっていった。普段働いているのかどうか、金に困れば盗みをするようなアウトローだが、旅立とうとする楯男からせびりとった金が東京に出るための軍資金だと分かると、警察に追われている身であるにも関わらず、突っ返し、いくら受け取るように促されても頑なに受け取りを拒否する友達思いの側面をも併せ持つ。義理堅いというか、根っからの悪人ではないのだ。ラストで、主人公の旅立ちを、ホームから“バンザイ”を叫びながら、見送る姿は忘れ難い。
時代は昭和30年代の前半か。戦後の高度経済成長期の風潮は、高知の片田舎にも現れている。東京へ出て、新しく生まれ変わることに希望を抱く主人公の姿には、日本がまだ将来への希望を失っていなかった時代が反映している。昔の時代の青春物語だと言えばそれまでで、今観ると隔世の感があるが、主人公の夢と云うか熱い思いがひしひしと伝わってくる。そこから飛び出したい、逃げ出したいと模索するさまは、時代は変わったとはいえ、青春期を苦闘する現代の青年にも通ずるものがある。
一人の田舎の青年の青春物語であるが、何よりもこの映画の魅力は、彼を取り巻く個性的で愛すべき周囲の人物たちであり、高知という、他にはない独特の土地柄を赤裸々に描き出した点にある。高知を知りたい方、そして高知在住の方にも、高知という土地が生み出した青春映画の傑作として、是非一度御覧になることをお薦めしたい。高知版の“アメリカングラフィティ”、いや“ナカムラングラフィティ”というべきか。高知の愛すべき人々を知るにも恰好の映画である。
| 固定リンク
「映画」カテゴリの記事
- 『高江ー森が泣いている』 高知緊急上映会(2016.10.19)
- 園子温監督のこと(2012.07.13)
- 映画の評価と『王手』(2011.07.07)
- 最近観たのは・・・(2011.07.05)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
ヒラリン牧師、こんにちは。
先の拙サイトの更新で、こちらの頁を拙日誌からの直リンクに拝借したので、報告とお礼に参上しました。僕の映画観賞歴のなかでスクリーン観賞最多回数作品の本作にまつわる実に愉快なお話をどうもありがとうございました。
「妻は「これは幡多やき、まだ上品、土佐はもっと激しい」と言った」との時、牧師の脳裏をよぎったものを察するだに可笑しくなりません。
投稿: 間借り人ヤマ | 2020年5月29日 (金) 01時16分