伝道って
毎日の更新を心がけていたのに、昨日は書き込めなかった。まあ、無理せずのんびりやろう。
昨日は高知市内の神父牧師会に出席した。その席で、フィジーで起こっている“リバイバル” (こういった表現が適切なのかは分からないが)、この国でキリスト教が広がり、多くの人が“救われている”といった内容のDVDを見た。
多くのことを考えさせられた。伝道って、何なのだろうか、救いって何なのだろうか。そして私たちに求められている働きって何なのだろうか、と。
このDVDからだけでは、実際この国がどのような状況にあるのか、何が行なわれているのかを判断出来るものではないし、してはならないだろう。しかし、これが描き出そうとしているものは、余りに一面的で、歴史上布教の名のもとに、キリスト教が犯してきた罪が繰り返されそう、いや繰り返されていることを思わざるを得ない。
私たちの現在信じている“キリスト教”の教えや教義の中には、多くの文化的要素が入り込んでいる。その多くは欧米の文化だ。それらを全て否定するつもりはないが、それらはイエス・キリストの教えの本質的なものではない。
イエス・キリストは人を愛した。それも敵を愛した。その愛は、自分の価値観の押し付けでは断じてなかった。イエスはその出会った目の前の人を一方的に変えようとはしなかったであろう。先ずその人を受け入れ、尊重し、その人がありのままの姿で生きられように生かしたんだと思う。それがイエスの愛だと思う。
フィジーでも民族対立が激しくある。先住民であるフィジー系と新しい住民となっているインド系の紛争。そしてフィジー系はキリスト教徒、インド系はヒンズー教徒が大半だが、1割ほどのイスラム教徒がいるらしい。私たちが目指すのは、召されているのは、異教徒を改宗させることなのであろうか。国民の全てをキリスト教徒にすることが、私たちに託されているのであろうか。一方的に相手の大切にしてきたものや背景を考えに入れず、尊重もせず、自分が良かれと思うことを押し付けることが、イエスの命じられている伝道だとは断じて思えない。これこそ、原理主義そのものなのではないか。
そのために私たちは何をなすべきなのだろうか、何が求められているのだろうか。祈り求めていきたい。
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コメント
ブログにも寄らせて貰いました。今回頂いたメールやブログを見ると、少し肩の力が抜けてメールすることができました。(文章や印刷物の平林さんはとても立派な気がして気後れしていました)ひらりん・・・懐かしいですね。(笑)いつもまなざしはしっかりと神様に向かっている平林さんを感じます。
私もいろいろありますが、一緒に食卓を囲む家族があり温かい食事を与えられていることを感謝しています。今日は次女の高校入試(私立)です。本命は3月ですが。海苔巻きを作ってもたせました。もうすぐ開始時間です。私に似てそそっかしいので心配です。私も20数年経って、少し肩の力が抜けるようになったかな?ブログ時々寄らせて貰いますね。ではまた。(ミンサー織りのラインがいいですね。)
投稿: 原 順子 | 2007年2月 1日 (木) 09時29分