『高江ー森が泣いている』 高知緊急上映会

  1. 本日、北部訓練場のヘリパッド建設に反対する市民に対しての機動隊員の一人の「土人」発言が問題になっています。ヘリパッド(ヘリコプターの着陸帯)建設と言われていますが、実際はオスプレイが頻繁に行き来していることからも、「オスプレイパッド」と言った方が適切だと思います。
    そこで、参議院選後の今年7月10日から一か月の間に東村高江で何が行われているかを撮影した映画
    『高江ー森が泣いている』の上映会を高知で行います。
     これは、2012年以降、沖縄において、辺野古・高江の現状の撮影を続けておられる「森の映画社」(藤本幸久さんと影山あさ子さん)制作の作品です。
  2. ...
  3. 高知緊急上映会の詳細は
  4. 日 時  2016年11月12日(土)
         午後2時 4時 6時 
    場 所  日本バプテスト連盟高知伊勢崎教会
         (高知市伊勢崎町3-8)
    料 金   500円  小学生以下無料
    問合せ    平林(090-5939-2403)
  5. 今週中には、チラシ・ポスターが出来上がりますので、
    高知市内に配布していきます。
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アドベント(待降節)

本日からアドベントに入りました。アドベントは、イエスさまのご降誕をお祝いするクリスマスを待ち望む期間ですから、楽しみに待てば良いのですが、イエスさまの十字架を信じる者にとっては、ただ漫然とその日を待っておればよいのでないことは言うまでもないでしょう。

アドベントの概念は教派によって異なります。西方教会(ローマ・カトリック、聖公会、プロテスタント)では、教会の一年はアドベントから始まると捉え、1130日に最も近い主日から12月24日のイブまでの約4週間を、その期間と定めています。その一方、復活大祭(イースター)と五旬祭(ペンテコステ)を教会暦の節目とする東方教会(正教会)では、クリスマスの前後の主日に特別な一連の祭りは行ないますが、アドベントの概念自体がありません。

資料によると、5世紀のフランスの司教ペルペトゥスが、1111日からクリスマスまで、週3回の断食を命じたのが、アドベントをどのように守ったかの最古の記録として残っています。正教会が、16日の公現祭(イエス・キリストの洗礼の日 但し西方教会では、東方の占星術の学者たちの訪問を記念する日としている)に洗礼を受ける予定の者が、断食と悔い改めを、洗礼の準備として行なっていたことが西方に伝わり、西方教会においても、断食と悔い改めがクリスマス前の習慣となっていったようです。現在は西方教会においては、教派の教えとして断食が行われることはないようですが、カトリック、聖公会、ルター派の教会では、今でも祭服や祭壇にかける布には、悔い改めを意味する紫色のモノが用いられます。

私たちバプテスト教会では、教会歴を柔軟に捉えることからも、通常断食を行なうことはありませんが、私たちの罪のために十字架に架かられたイエスさまを心の王座にお迎えするためには、自分自身の罪を深く心に受け止め、悔い改めの心の備えをすることは、クリスマスを迎えるにあたって必要なことです。そのための断食なら、神さまも、喜ばれるかもしれませんね。

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やなせたかし

『アンパンマン』の作者で、香美市出身(生まれは東京都)の漫画家やなせたかしさんが、今月13日に召天された。ご本人は死期を悟られていたようで、今年の6月には「来 年までに俺は死ぬんだよね。朝起きるたびに少しずつ体が衰弱しているのが分かるんだよね」と語っておられた。2011年頃に膀胱がんが判明し、肝臓にも転移し、尿道結石など数々の病に侵されながらも創作意欲は衰えず、94歳の現役として活躍されていた。

『アンパンマン』は、公開当初は、そのテーマの難しさや顔を食べさせるという設定が大人たちには不評で、子どもたちには受けないと酷評されたそうだが、子どもたちの間からは評価され、国民的アニメとなり、知らない人はないほどの作品となった。

キリスト者であったやなせさんは、「本当の正義はミサイルを発射することでなく、飢えた人に食べ物を与えること」と発言され、また別な機会には「正しいことをする場合、必ず報いられるかというと、そんなことはなくて、逆に傷ついてしまうこともある」とも語られていた。アンパンマンの姿の“闘い”方からは、イエス・キリストの十字 架が見えてくる。

実の弟さんを戦争で亡くされ、自らも出征中に、食料が無く空腹の苦しさを体験されたことから「正義の味方だったら、まず食べさせて飢えを助けること」との考えに行きつき、「世界最弱のヒーロー」(本人談)が生み出された。

最初の絵本『あんぱんまん』のあとがきには「空腹の者に顔の一部を与えることで悪者と戦う力が落ちると分かっていても、目の前の人を見捨てることはしない。かつそれでありながら、たとえどんな敵が相手でも戦いも放棄しない。」とある。キリストを信じる者の生き方が表われている。

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『バイカル湖』

 モンゴル国境に近い中央シベリアのタイガに広がるバイカル湖は、いろんな意味で興味深い湖です。面積は世界7番 目ですが、最大水深が1741mと世界で最も深いことから、その貯水量は23,000立法㍍で、世界中の淡水の約20%を有す ると言われています。

 また約3,000万年前に海から孤立し、その後長い期間をかけて徐々に淡水化していった世界最古の湖の一つでもあり、生態系の面においてもガラパゴス諸島と並ぶ“生物進化の博物館”“生態学の 宝庫”とも称されています。そのた めもあってか、聖なる場所と捉えられ、古代から礼拝地と されてきました。

 バイカル湖が人々を魅了する最大の特徴は、40㍍を超え る世界最高の透明度でしょう。ここは、流 れ込む河川は33 6本ありますが、ここから流れ出る川はアンガラ川一本で す。流入と流出の差が大きいバイカル湖ですが、水晶のような純度を保つことの出来る最大の要因は、小さな生物の存 在にあるというのです。

 その一つが、カイアシ類の小エビのバイカルエピシュー ラです。肉眼では確認できない程の体長約 1㍉のこのエピシューラは、極小の藻類を食して、バクテリアをろ過する特性を持っています。そのも のバイカル湖の純度を保つ自 然のフィルターの働きをしているのです。そのようなごく 小さな生命体であるエピシューラが、膨大な貯水量の湖の透明度を維持させているのは、とても示唆的に思えます。

 私たちの心の中にも、様々なものが流れ込んできます。偽りや悪に流されてしまうこともあります。そしてそれを浄 化させる力を、私たちは持ち合わせていません。それをして下さるのは、ただイエスさまだけです。

 イエスさまの「からし種一粒の信仰があれば」(マタイ17:20)との言葉が思い起こされます。 体長1㍉のエピ シューラがバイカル湖の純度を保つように、イエスさまへのからし種一粒の信仰が、私たちを日々新たにしてくれるのではないでしょうか。

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献身者を支える

本日の礼拝は神学校週間礼拝です。先週のアピールにもあったように、今年度から名称が「神学校献金(神学生奨学金献金)」となり、給付の対象が西南学院大神学コースだけでなく、東京と九州のバプテスト神学校の牧師コースの神学生に広げられました。両バプテスト神学校の発足の経緯など、様々な事情があり、両バプテスト神学校の神学生は、奨学金の対象になっていなかったのですが、こうした連合立等の神学校で伝道者としての道の歩みの備えをされている方にまで広がったことは感謝なことです。

他の教派のことは完全には把握していませんが、全寮制で卒業後には、その教派の牧師等になることが義務付けられている学校はあるようには聞いています。しかし、そこまでの規定路線を敷くのでなく、神学生の授業料(1種奨学金)だけでなく、生活上の奨学金(2種奨学金)までを給付(貸与)する教派はそうは多くない、いや珍しいのかもしれません。

両バプテスト神学校と西南大神学部には、ランクの差はありません。西南大神学部の良さは勿論ありますが、そのマイナス面もありますし、働きながら夜間に通ったり、DVDを観ながら、独りで学ぶには、相当の根気や克己心が求められると思います。ただ、西南の神学生の場合、勤めを退職し、福岡に移住しての学びですから、経済的には厳しくなるという事情は考慮されねばなりません。家族を養いながら学んでおられる方もおられますから、アルバイトのために勉学に影響が出ることもあり得るからです。

西南大神学部に来られる方の最近の傾向としては、定年退職後の方、女性の方(今年度学部入学者は5名中4)、外国人(学部4年にミャンマー人の女性)が増えていることです。

いつも申し上げているように、献身者の在り方は牧師・宣教師になることだけではありません。しかし、召命を受けて伝道者としての奉仕の道は甘くはありません。私たち一人ひとりが神さまから召命を受けていることを真摯に受け止め祈り求めることと併せて、バプテストの神学校の神学生を覚え祈り、支えることも、神さまへの感謝と大切な応答であります。

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恐れと自己防衛

「いい加減目覚めなさい」「イメージできる?」のセリフが流行した天海祐希主演の『女王の教室』を観た。相当へヴィーな内容のドラマではあったが、愛と希望に燃えた一人の女教師が悪魔のような教師に変貌していくさまや、女王様キャラがピッタリの主演の天海祐希の熱演もあって、8年前の放映時にはかなり話題になったのを記憶している。でも、現実離れしている点もあり、この教師を通して実践される教育論には問題点もあるから、内容を能天気に賞賛する気持ちはない。

ただ、このドラマの子どもたちの姿には、共感というか、元々抱いていた思いを確信させてくれるだけのものがあった。子どもに限らず人を縛り付け、人と人を分断するのは、やはり恐れだということだ。

人は自分に攻撃が向けられるのではないかと恐れると、その攻撃から自分を守るため自己防衛を図る。みんなわが身が可愛いから、そのためには嘘もつくし、友達を裏切ることさえする。攻撃は最大の防御というのは、スポーツの世界ではよく言われることだが、人と人との関係においての自己防衛は、周囲の者に疑心暗鬼な思いや恐怖心を植え付けることになり、当の相手には十分な攻撃となってしまうことが多い。

 恐れは決して私たちを守ってはくれない。当面の攻撃をかわすことにはなるかもしれないが、攻撃は様々な形で迫ってくることから、常に防衛の手段を講じ続けることが求められる。また、次にいつ新たな攻撃の対象になるかとの恐れに脅え続けねばならず、自分自身の恐怖という攻撃からはずっとさらされ続けことになる。恐れは更なる恐れを生み出し、その負のスパイラルは永遠に続くことになりかねない。

 その悪循環から私たちを救ってくれるもの、そこから解放し守ってくれるのは、相手への愛と信頼しかない。そのことを身をもって示してくれたのこそが、イエスの十字架なのである。

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ふぞろいの林檎たち

 山田太一のドラマを続けてビデオで鑑賞。小説家としても、『異人たちとの夏』で山本周五郎賞を受賞し、演劇脚本作も多いが、使命感を持ってテレビでドラマ制作をして来たことを感じさせてくれる日本の代表的脚本家だろう。向田邦子・倉本聰と“シナリオライター御三家”と評されたりもした。表題は、彼の作風を象徴する代表的ドラマのタイトル。他には、出世作となった『岸辺のアルバム』、『男たちの旅路』『想い出づくり』、大河ドラマ『獅子の時代』等がある。

 山田の作品は、器用には生きられない“普通”の人々の不器用な生き方を温かく見つめることで、人間存在を掘り下げたドラマが多い。登場人物が“普通”の人々なだけに、起伏は少なく、淡々とストーリーが展開するのが特徴。

 今回鑑賞したのは、連続ドラマとしてはおよそ12年ぶりの2009年度作『ありふれた奇跡』と、20075月に放送された単発ドラマの『星ひとつの夜』。『ありふれた奇跡』は、駅のホームで不審な男を見かけたことで偶然出会ったそれまでは見ず知らずだった二人の男女を主軸に、その不審な男とそれぞれの家族の葛藤する姿を描いたもの。主人公の二人には、互いに人に言えない心の傷があったが、そのことも通して、二人の距離は縮まっていく…。殺伐とした都会で孤独に生きる人間が、不器用ながらに交流し、心を開くことで希望を見出していく姿は観る者の心を打つ。主演の二人は、加瀬亮と仲間由紀恵、共演に陣内孝則。

『星ひとつの夜』は、コンサートホールの清掃員が、50万円程の現金入りの忘れ物のコートを見つけ、持ち主の青年に届けたことで物語は始まる。清掃員には殺人で11年間刑務所に服役した過去があり、青年の方は、パソコンを使った株取引で90億もの資金を動かすデイトレーダーだった…。家族や友人との関わりが稀薄になった現代人にとって、人と関わることとは何か、他人を理解し受け入れることの困難さを考えさせられる。出演は、清掃員に渡辺謙、青年役は玉木宏。

無縁社会と言われる現代日本で、要領悪さを呈し、時には無様にも見えながら懸命に生きる人間を通して、一筋の光明と希望を与えてくれるいずれも秀逸な作品だった。自分も含め、聖書の人物もみんな“ふぞろいの林檎たち”なのかもしれない。生き難い人間社会を生きていく上に、少しは役立ったように思えた。

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ご無沙汰しています

昨年の8月以来、記事を書かないまま今日にいたりました。

この間にあったことをここに全部記すことは到底出来ません。

それは差し障りがあるからではなく、あまりに込み入って、私たち夫婦にとってはあまりに大きな出来事が連続したからです。

妻の入院、義母の急死、そして私も精神的にまいってしまい、9年前に入院した福岡の病院に11月から2月の8日まで入院しました。

お陰さまで、退院後に復職し、何とか仕事はしていますが、まだまだ本調子とは言えません。

ブログの方も、ボチボチ書き始めようとは思ってはいます。

よろしくお願いします。

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華やかさの陰で

シリアで日本人の女性ジャーナリストが

殺害された。

同行の記者に彼女の語っていた言葉は、

私たちの心を刺す。

「華やかな五輪の陰で、

砲弾の飛び交う中で暮らす

シリアの人々の現状を伝えたい」

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8月19日 「静かなる細き声」 

「静かなる細き声」  2012年8月19日

  列王記上19章1~18節  平林  稔

 みなさん、お帰りなさい。先週は平和主日礼拝として守りましたので、旧約を離れましたが、今日はまた列王記です。列王記、これは字のごとく、イスラエルの国の王の列伝です。ソロモン王の死後、国は二つに分裂しましたが、この列王記には、南のユダ王国と北のイスラエル王国の両方の国の王さまの事が記されています。その王たちの伝記の中に、主から遣わされた預言者たちのことが書かれています。預言者、これは、単に未来の予知をする人のことではありません。預言の“預”は「預ける」、神の言葉を預けられて民たちに伝える役割を託された者たちのことです。ですから、彼らの語る言葉の中には、民や国の将来のことも含まれてはいました。

 そんな預言書の一人が、今日の話の中に登場するエリヤです。彼は、南北に分裂した王国の北王国イスラエルで、アハブという王様の治世に活躍した預言者です。アハブ王は、外国から迎えた妻イゼベルと共に、北王国の中に、バアルという外国の異教の神を持ち込み、その偶像を祭る祭壇を国の中に積極的に築いた王でした。妻、すなわち王妃であったイゼベルは、主なる神に仕える預言者たちを迫害し、その多くを殺害しました。

 今日の19章の前の18章には、エリヤが一人で、バアルの預言者たち450人と、カルメル山で対決して勝利した有名な話が記されています。今日はこのことは詳しく述べませんが、干ばつに襲われたイスラエルの国に、雨を降らせるように双方の預言者がそれぞれの神に祈ったのですが、雨を降らせたのは、エリヤの祈りでした。イスラエルの神、ヤハウェこそが、御自分こそまことの神であるあることを示して下さったのです。それを見たイスラエルの人々は、エリヤの言葉に従い、バアルの預言者たちを皆殺しにしました。

 19章はそれに続く話です。これでアハブ王も王妃イゼベルも悔い改めて主なる神さまに立ち帰り、バアルを棄てたかというと、そうならないのが世の常のことです。エリヤがバアルの預言者たちを剣で殺したことを知ったアハブ王の王妃であったイゼベルは、使者を送ってエリヤに2節で「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」と言い、エリヤ殺害を命じました。このイゼベルは、聖書の中に登場する鬼嫁の中でも最強の一人、最悪妻だとも言われている女性ですが、この2節の言葉も「明日の今頃までに自分の命を懸けて、エリヤを殺す」との宣言です。

 カルメル山でたった一人で、バアルの450人の預言者と逃げも隠れもせずに戦ったエリヤですから、王妃であったとはいえ、一人の女性の言葉にめげるような人物ではないように思うのですが、このイゼベルの強烈さは、当時の国の人々には知られていたのでしょうか、イゼベルの言葉を聞いたエリヤは、3節にあるように一目散に逃げました。巻末の地図をご覧いただければと思いますが、5『南北王国時代』の地図です。カルメル山は、地中海沿岸の北王国の北の方、ここからベエル・シェバ、南ユダの南部まで逃げているのです。半端な逃げ方ではないですね。彼に従っていた従者をそのベエルシェバの町に残して、自分は更に荒れ野にまで入り、更に一日の道のりを歩き続けたというのです。一人の女性の言葉だけで、一目散に逃亡しました。4節後半「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。もう生きる気力さえなくしています。

 エリヤは、単に苦しみや悲しみによって絶望したのではないでしょう。カルメル山での大勝利、それはものすごいエネルギーが必要だったでしょう。アドレナリンも全開。緊張、プレッシャー、ストレスに満ちていたかもしれません。そしてその戦いに勝利した。それも誰の眼にも明らかな、完全勝利です。大きな喜びにも満たされたでしょう。しかしそれが何の実りも生まなかったように思える事態に直面して、彼は自分がやって来たことが一体何であったのかという気持ちに襲われたのではないでしょうか。

 そんなエリヤに、神は御使いを遣わして、食べ物を与え、神の山ホレブへと導かれます。神はエリヤを活かし、もう一度用いようとされたのです。ホレブとは、あのモーセが十戒を与えられた山、シナイ山の別名です。イスラエルの民と主なる神さまとの出会いの原点とも言える場所です。彼はそこの洞穴で世を過ごすのですが、その時主の言葉を聞きます。「エリヤよ、ここで何をしているのか」全能なる神さまのことですから、彼が何をしているのかは、百も承知のはずです。これは「こんなところで何をしているのか」という叱責の言葉ではありません。原文から少し大胆に訳すなら、これは「あなたにとって、今ここで問題であることは何か」神さまは、エリヤを責められるのでなく、また励まされたのでもなく、「あなたは何を問題としているのか、何を苦しんでいるのか」と問うておられるのです。

 彼の答えが10節です。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」

神はエリヤに語ります。11節「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」。この時、エリヤは洞穴の中にいました。これは単に引きこもっている者に対して「外の世界を見なさい」というようなことではありません。エリヤはイゼベルが怖くて逃げたというより、主なる神さまから逃れようとしたのです。その彼に向かって神がおっしゃったのは「主なる神の前に立つこと」です。ここでのエリヤほどではなくとも、私たちも自分の歩みの中で、挫折を感じたり、時には絶望感に苛まれることがあります。エリヤのように、自分自身の洞穴の中に引きこもってなかなか抜け出すことが出来ない時があるものです。

それが前に向かって歩み出せるのは、主なる神の前に立ち、自分の顔を主なる神に向けること、そのことによってだけなようです。当面の問題を解決することは、前に向かって歩み出す条件ではないのです。私たち信仰者が歩み出せるのは、神さまの前に出て、その無力な自分自身を献げることによるのです。

しかし、エリヤは、すぐには洞穴から出て来れませんでした。彼の受けた傷と痛みはそれほどに深かったのです。エリヤが閉じこもっていた洞穴の前を主なる神が通り過ぎられたことが11節に記されています。

「見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を/裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。」

山を裂き岩を砕くような激しい風と地震と火、それらのことが洞穴の中にいたエリヤの前で起こったのです。しかし、ここでは、「主はおられなかった」と聖書は語ります。「主がおられる」というのは、どういうことなのでしょうか。ここでの風と地震と火も、神さまが起こされたものなのでしょうが、そこには主は居られなかったというのです。被造物である人間は神さまを見ることは出来ません。しかし、姿が見えずとも、私たちは神さまとの出会いを体験することは出来ます。エリヤは風の中にも、地震の中でも、火の中でも、主なる神との出会いを体験しなかったのです。

これらの現象は、ある意味、カルメル山でのバアルの預言者との対決の体験にも通じます。私たちは神さまが私たちと共におられることを、そういった特異な、特別な体験の中に求めたくなるものです。エリヤも、バアルとの対決の勝利の後には、天から主の火が降り、自分の戦いが実を結ぶという達成感の中に、神さまとの交わりと信仰の土台に置いたのです。しかし、それは、彼を活かすことにはならなかった。イゼベルの前から、いやイスラエルの社会から、そして神さまの前から逃げ出させることにしかならなかったのです。

この時の洞穴のエリヤも、これらの出来事の体験によっては、洞穴から出て来ることはありませんでした。彼を洞穴から導き出し、彼が神さまと出会えたのは、そういった特異な体験ではなかったのです。それは火の後に彼の耳に聞こえた「静かにささやく声」でした。以前の訳では「静かな細い声」でした。神さまとの出会い、そしてその臨在を感じての交わりの中で生きること、それが信仰者としての在り方です。エリヤは、一人で450人の異教の預言者との戦うことは出来ました。また、地震や火や風の体験をしました。しかし、そういったことに信仰の土台をおいても、私たちが前に歩み出すことにはならないのです。大きな激しい体験、華々しい勝利や成功、あるいは私たちの達成感、そういったことは、本当の意味での私たちの信仰の土台とはならないことを、この話は伝えてくれます。

エリヤが洞穴から出て来ることが出来たのは、彼を外に導き出したのは、静かにささやくような細い声だったのです。大きな仕事をやり遂げること、また風や火やましてや地震、それは日常的な出来事ではありません。もしそれらのことの中で、エリヤが神と出会い、洞穴から出て来ることが出来たのであれば、私たちは大変です。しかし、静かな細い声、これは決して大きな出来事ではありません。エリヤがその小さな出来事を通して、主なる神と出会い、洞穴から出て来ることが出来たことは、私たちにとっては、大きな慰めとなるのではないでしょうか。

そして再び「エリヤ、ここで何をしているのか」と尋ねられます。しかしここでのこの問いかけは、9節の問いかけと同じ言葉ですが、意味合いは大きく異なるでしょう。14節のエリヤの答えからも、彼の不安と恐れの問題は解決していません。しかし、彼はそのままで主の前に出てきたのです。これで良いのです。

神さまは再び「エリヤよ、ここで何をしているのか」と問うてくださいます。ここでの彼の答えも前と同じですが、この時は、神の前に出ての答えです。それを聞いた神の答えは、前とは違います。「行け、あなたの来た道を引き返し」とあります。直訳すれば「行け、帰れ、あなたの道を」です。そして、彼がすべきことを、彼に託される事柄を命じておられます。

これは単に、苦しみの中にいるエリヤに対しての慰めと励ましではありません。むしろ、エリヤに新たな使命を与え、彼を元いた場所へと遣わしておられるのです。

私たちも、主なる神の前に立つこと、これは何もこの二本の脚で立つことではありません。自分の主体的判断で、神と相対するということです。その私たちは、静かな細いささやくような声で、私たちを洞穴から導き出し、次に歩むべき道筋を伝えて下さるのです。祈りましょう。

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