2012年1月8日宣教
「五千人の給食」 2012年1月8日
ルカ9章10~17節 平林 稔
皆さん、お帰りなさい。礼拝では、昨年12月からルカによる福音書を読んでおりますが、本日は9章の、イエスさまが男性だけで五千人はいたと言われる群衆たちに、食べ物を与えられた出来事の箇所です。
10節「使徒たちは帰って来て、自分たちの行なったことをみなイエスに告げた」使徒たちとは、十二弟子のことですが、彼らはどこに行っていたのでしょうか。それは9章の1~6節に記されています。「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。『旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。』十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。」
彼らはイエスさまによって派遣され、村から村を巡り歩き、福音を告げ広め、病の癒しを行なったのです。それは、イエスさまから悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能を授かったからですが、それは全知全能の恵み深いイエスさまが彼らを通して、病に苦しむ人々と触れて下さった。神さまのみ業が現れたのです。癒された村人たちは、弟子たちに感謝したに違いありません。
週報の巻頭言にも記しましたが、本日の「五千人の給食」の奇跡物語は、この1節からの宣教と癒しの旅を受けての出来事です。それは、10節の最初の言葉で分かります。彼らの心には、苦しみを負った人のことではなく、自分たちの行なった行為に関心が向いていたようです。人々を助けて感謝されることが続いたのでしょうから「私がしたのだ」と心の中ではつぶやいていたかもしれません。彼らは悩み苦しんでいた人のことを伝えていません。「自分たちの行なったことをみなイエスに告げた」とある通りです。神さまがどれほど人々に深く関わって下さったのかを語ったのでもないのです。イエスさまが待っておられたのは、そのことであったように思えます。自分のしたことの大きさを互いに競い合いながら得意満面に延々と語り続ける弟子たち。イエス様はそんな彼らの話をじっと聞いていたのでしょう。何しろ十二人もいますから、話を聞くだけでも大変です。
全て聞き終わられて、イエスさまはどうされたでしょうか。10節後半「イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」自分たちだけで退かれたとは、明らかに群衆から離れるためです。イエスさまは弟子たちを群衆から引き離そうとされたのです。「私がしてやったのだ」と思っている弟子たちが、その思いから解放されるには、群衆と引き離すしかないと、イエスさまは判断されたのでしょう。
しかし、群衆たちに気付かれてしまいます。人々は、イエスさまのことを追いかけていったのです。イエスさまは、群衆と関わることを煩わしいと思われたのではありません。あまりにも多忙な日々が続いたので休みたかったということでもありません。それは追ってきた群衆に対するイエス様の態度からも窺われます。「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」と11節にはあります。「人々を迎え」た。これは「喜んで受け入れた」という意味です。この人たちは、病気や苦しみを背負っていたでしょう。彼らは必死の思いでイエスさまを追いかけて来たのです。そんな彼らのことをイエスさまは喜び迎えられたのです。それは神の国への招きでもあります。イエスさまは「神の国について語」られたのです。神さまが招かれていることのしるしとして、病気を癒されたのです。そして、イエスさまは、弟子のこともお忘れにはなりませんでした。イエスさまは、弟子たちにも本当に必要なものを伝えようと思われたのです。
日が傾きかけてきて、弟子たちは言いました。12節「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」彼らのこの申し出は実に理に適っています。まだ日は傾く前ですが、人里離れた所にいたのですから、村まで辿り着くには時間がかることを考えているのです。もし日が暮れてしまえば、空腹のままで夜を過ごさねばならないのですから。
ところが、この時イエスさまは、弟子たちに驚くべきことを求められました。13節「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」この話と同じと思われるマタイ福音書14章21節によると、この時の群衆は男だけで五千人はいたというのですから、これは全く無茶苦茶な話です。弟子たちは答えます。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」これは至極当然の判断です。
しかし、彼らは大事なことを忘れてしまっています。それは、彼らが宣教の旅に派遣された時のことです。9章3節「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」彼らは何も持たずに出かけたのです。イエスさまが「何も持っていってはならない」と命じられていたのです。彼らは何も持たずに出かけた、しかし彼らは何も困らなかったどころか、多くの苦しんでいる人を助けることが出来たのです。彼らは自分の持っていたもので、人びとを助けたのではなかったのです。ただ恵み深い神さまが、彼らを通して働かれたのです。彼らはそのことをすっかり忘れてしまっています。多くの奇跡の癒しの業を体験することで、まるで自分が行なったかのように思ってしまっていた弟子たちに、イエスさまは本当に必要なことは何であるかを示そうとされました。「パン五つと魚二匹しかありません」と言わざる得ない現実、自分たちの持ち物や力で業を行なうのではないことを、体得させるためにです。
パン五つと魚二匹をかかえて途方に暮れる弟子たちに、主は言われました。「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい。」弟子たちはただ主の言われるままに、人々を座らせました。16‐17節「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」
全く不思議なことです。信じ難い出来事です。実際、どのようなことが起こったのか、よく分かりません。しかし、この出来事を通してイエスさまが、弟子たちに、そして私たちに伝えようとしていることは明白です。群衆が満たされ、生かされ、神の国の麗しさを体験したのは、明らかに《弟子たちの持っているものによってではなかった》ということです。イエスさまがなさることによって、イエスさまの憐みによって、群衆は満たされ、生かされます。弟子たちが行なったことは、キリストが祝福なさり裂かれたものを、ただ人々のもとに運んだだけです。
これは弟子たちにとって忘れられない体験であったようです。ですから四つの福音書すべてに、この時の奇跡が記されていることに表れています。イエスを信じ従う者の為すこととは、キリストから受けた物を運ぶ者に過ぎません。キリストから受けた物を人々に手渡すこと、それこそが私たちに求められているのです。
二匹の魚と五つのパンしか持たない現実に呆然としている弟子たちの姿は、私たち現代の教会の姿だと言うことが出来るでしょう。自分の持ち物の貧しさ、信仰の弱さ小ささに立ち尽くすのが私たちの現実です。こんなに世界は苦しんでいるのに、その中にあって、自分は何も出来ない、何も持ち合わせていない。
しかし、それで良いのです。自分の持っている物で人を救える、自分の力で人を生かすことが出来ると思うよりは、はるかに良いのです。旅から帰って来た弟子たちは、正にそんな思い上がった状態にいたのです。しかし、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と命じられて、パン五つと魚二匹しか持っていない貧しさと無力さに呆然とする時に、本当に何が大切かが見えたのです。私たち教会は、キリストから受け取った物を運ぶだけでよいのです。それこそが教会の務めなのです。
最後に、もう一つの事柄にだけ触れてメッセージを閉じたいと思います。それは、この時弟子たちは、持っている僅かの物、パン五つと魚二匹、それを全て献げていることです。イエスさまは、私たちの献げる、差し出す物を用いて業をなさるお方です。こんなちっぽけな物と決めつけているのは私たちの傲慢なのかもしれません。その僅かの物であっても、それをイエスさまに献げることで、大きなみ業が行なわれる。ただ「イエスさまお用い下さい」と献げることで、イエスさまのみ業は始まるのです。お祈りします。
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