2009.7.12 宣教『イザヤの召命』
「イザヤの召命」 2009年7月12日
イザヤ6章1~13節 平林 稔
皆さん、お帰りなさい。先週から庭の木に蝉が集まり出し、鳴き始めました。教会の礼拝堂の玄関の前の木、シマトネリコは蝉たちのお気にいりなようで、真夏になると半端じゃない数が集まり、うるさいほどに鳴きます。まだ、そこまでではありませんが、蝉の声を聞くと、「ああ、夏になったのだな」と実感させられました。それで、以前より今年は髪の毛を短くしようと心に決めていました。似合うかどうかはわかりませんし、鏡の前に立つと、そこに写る自分の姿に違和感さえ感じていますが、とても涼しくて快適です。
さて、先週よりイザヤ書を読んでおります。今日は6章です。この6章はイザヤの召命体験の場面です。召命とは、神さまからの召しを受け、それに応えて自身を神に献げることであります。召命というと、牧師になることの決断を促される時にだけ問われることのように思われていますが、先週も申し上げましたように、イエス・キリストと出会い、キリストの弟子として歩んでいく導きを受けております者は、皆神から自身を献げることが促されております。ですから、キリスト者は皆神からの召命を受けているものであります。神さまは一人ひとりに個別的に導きを与えられますから、皆さんお一人おひとりにとってその体験に違いはありましょう。人によっては、牧師の召命を、また役員の信徒としての召命を神さまは促されます。教会内でのことに留まらないと思います。夫としての召命、妻としての召命、社長の召命、会社員としての召命、など、神さまはそれぞれの立場の方に対して、召命を与えられます。その意味からも、私たちにとっての召命とは何であるのか、またそこに先立つ罪の清めと赦しについてイザヤの召命体験のみ言葉からご一緒に聞いていければと思います。
このイザヤの召命体験の記事は、彼がその体験をした後すぐに記したものではないと言われています。彼は召命を受けて神の預言者として活動していきました。当時の国と王は腐敗しており、イザヤは王に会見を申し入れ、王の軽はずみな行動を戒め、神に立ち帰ることを説きましたが、王はその忠告に従おうとはしませんでした。また、この時代の人々にも神に信頼するように勧めましたが、民たちも聞き入れようとはしませんでした。そのため、公の預言者としての活動が出来なくなり、その身に危険が及ぶ事態にもなったようです。そのため、自分からの召命を受けた真実の預言者であり、自分の言葉は神から預けられた言葉であることを主張するために、自分の召命体験をまとめて、この預言者の中に入れたのではないかとされています。
6章1節「ウジヤ王が死んだ年のことである」ウジヤ王は歴代誌下26章3節によると、16歳で王となり、52年の長きにわたって王国を支配しました。彼は非常に有能な王で、その治世においては、国は栄え安定した状態に保たれていました。そんな王が亡くなったのですから、国民が動揺したことは言うまでもありません。また、目を外に転じてみれば、北の軍事大国のアッシリアの脅威にもさらされていました。長い安定した時代が終わった国としての転換期に、神の御心が働いたのです。ウジヤという名は「主は我が力」という意味です。その王の死は、国と国民にとっては一つの望みの灯が消えたことをも意味していました。それゆえに、国が何をまことの希望とし、何により所を置くかを見つめ直す時でもあったでしょう。そんな時に、イザヤは預言者としての召命を受けたのです。
イザヤは神殿において、今日の体験をしております。神殿は神と出会うところとされていました。その神殿で彼は神と出会ったのであります。しかし、彼は神の姿を直接見たのではありませんでした。旧約の時代においては「神を見た者は死ぬ」と信じられていました。イザヤが目にしたのは、神殿いっぱいに広がった衣の裾でした。これは具体的には、神殿の中でたかれていたお香の煙ではないかとも言われています。そこには、セラフィムがいた、と2節にあります。これは、神の座にはべる被造物で、六つの翼をもった蛇の形をしていた神のみ使いのことであります。彼らは人間の言葉を話し、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地の全てを覆う」という神を讃美する歌を聞きます。この「聖なる、聖なる、聖なるかな」というのは、讃美歌にもありますが、神殿祭儀において歌われた“聖三唱”と呼ばれたものでした。
そのように、イザヤが召命を受けたのは神殿で行なわれた礼拝の真っ最中でした。そして、どうやら、この時の神との出会いは、イザヤにとっては、予期しない、全く突然の出来事だったようなのです。彼が何故神殿にいたのかがはっきりしないのであります。
1章1節には、イザヤの父の名はアモツだと書かれておりますが、このアモツに関しては詳しいことは何も分かっていません。だから、彼が祭司の家の生まれなのかは分かりませんし、彼が祭司か何か、神殿に関係する仕事についていたのかもしれません。また、彼が預言者になってから、王に謁見することが出来ておることからは貴族の出だったのではとも言われています。だから、彼がどんな立場で、また何故この時神殿にいたのかは分かりません。しかし、それは、私たちにとって重要なことではありません。彼がたまたまであったにせよ、何らかの導きで神殿にやって来た時に、神と出会ったということなのです。
イザヤはこの時の神との出会いによって変えられました。彼は生ける神のその圧倒的な存在感とセラフィムのその「聖なるかな」との讃美の声にもある“聖”に触れたのであります。ここで一言、聖書の説く“聖”について説明いたしますと、この“聖”は単に、清いとか、汚れていない、ということだけを指すのではありません。“聖”とは、分離を意味しています。聖なる主と汚れた人間とは厳然と区分けされなければなりません。ですから、当然、そこには清いこと、汚れていないことは含んでおりますが、それより、他のものから区分けされている、全てのものとはかけ離れた、全く異なるものであることを示しています。
その神のきよさに触れたイザヤは「災いだ。わたしは滅ぼされる」とため息ともとれる恐れの気持ちを発しました。この言葉の中には、先ほども述べました「神を見たら死ぬ」という思いもあったでしょうが、それだけではなかったと思います。イザヤは神の前に自らの罪深さと汚れを感じて恐れおののいたのでした。イザヤは、自分とは全くかけ離れた存在である主なる神との出会いを通して、自分自身の罪深さと汚れだけでなく、被造物としての小ささを突きつけられたのでしょう。そして神を見たことと併せて、生きていることは許されないと感じたのです。人は本物との出会いによって変えられるのです。
本物との出会いによって変えられるということの一つの例話をさせていただきます。とても卑近な例でこのことに相応しいかはわかりませんが、本物との出会いの話です。
中日ドラゴンズの落合博満監督のことです。彼はその時までに既に2度三冠王を獲った球界を代表するバッターでした。彼は1986年にその運命の出会い、自分よりも凄い一人のバッターと出会うのであります。そのバッターは高校を出てプロに入ってきた新人選手でした。落合はその選手を一目見て、その男が本物であり、自分よりも上の選手であることを感じたと、引退後に週刊誌で語っておりました。そのバッターとは、1986年にプロに入って来た新人、誰だか分かりますか。1986年の新人、西武ライオンズに入団した選手です。昨年引退しましたが、そうです、清原和博です。彼も甲子園のヒーローで、鳴り物入りでその前年に西武に入団した選手でした。私はその記事を週刊誌で読んだ時に、ポッと出の新人に対してそんなことを感じ、正直に語る落合も凄い選手だな、彼も本物だなと感じたものでした。落合は、その衝撃を通して、自分の小ささと自分がまだまだ未熟な選手であることを感じ、益々技術向上のために練習に励んだと言います。その1986年にも彼は三冠王を獲得し、その後の落合が形成されていったのです。人は本物との出会いを通して変えられていくのです。
恐れおののくイザヤに対して、主なる神さまは、セラフィムを遣わして罪の赦しを与えて下さいました。それは罪の、咎の清めでもありました。セラフィムのひとりが火鋏で取った炭火を唇に触れさせたのです。火はしばしば清めのために用いられました(エゼキエル10章6~7節)。
罪の清めのために必要なものは何でしょうか。火、それは一つの象徴です。それは、イザヤの砕かれた心でした。神さまの圧倒的な清さに触れたイザヤは、自分自身の罪深さと汚れを自覚せざるを得ませんでした。そのように、彼は正直に罪を告白し、自分のような者は滅ぼされなければならない、生きてく資格のないものだと告げたのです。そこには、悔い改めの心と同時に全てを神に投げ出す、委ねるイザヤの信仰がありました。そこにおいて、人は罪の清めと赦しを体験するのであります。
よく、キリスト教の説く、罪の赦しが分からないということを耳にします。これは、洗礼を受けたクリスチャンの方からも聞かされます。いえ、かく言う私もその一人でありました。そこにおいては、自分の自身の罪の自覚がないことが往々にしてあります。これは、何も言葉で罪を言い表せばよいものではありません。神は人の心の中身をご覧になります。口先だけの罪の告白を求められるのではありません。その人が深く自分の罪に気づいて、自分の小ささ、罪深さを一言ででも言い表し、神の憐れみにすがるならば、その時に、人は罪の赦しを体験するのです。
でも、自分の罪が分からない時は、どうすればよいのでしょうか。それには神との出会いが必要です。今日の箇所におけるイザヤは、神殿の礼拝を通して神の清さに触れた時に、罪を告白せざるをえませんでした。ですから、自分自身の罪が分からないという人は、どうぞ神と出会って下さい。
その出会いの場は、今日のイザヤがそうであったように、やはり礼拝でしょう。礼拝は日曜の主日礼拝だけでなく、どんな場所でも礼拝出来ると言います。その通りだと思います。ですが、そのことを承知した上であえて、申します。やはり、一週間の最初の時を神さまに時間を献げて、礼拝をする、この主日礼拝は特別です。礼拝において、人は神との出会いが与えられます。また、他には祈りの中でしょう。日々のみ言葉を読む中で神との出会いが与えられることもあるでしょう。
その中で神はご自身の存在を現して下さいます。何年もかかることもあれば、初めて礼拝に出席した時に、その体験をする方もあられます。そして、それは突然与えられるのです。本日のイザヤも予期してない突然の出会いが与えられたのですから。
今日のこのイザヤの神殿での出来事の場面は、それが私の推測通り、何らかの神殿儀式のさ中であったならば、その場に居合わせたのはイザヤ一人ではなかったでしょうが、神と出会ったのは彼だけだったかもしれません。他の人から見れば、普通の礼拝の様子でしかなかったかもしれません。しかし、神さまはそんな者の中から、イザヤがご自身との出会いを通して、砕かれし魂となっていることを見逃されることはありませんでした。そしてセラフィムをイザヤに遣わして、罪の清めをして下さったのです。
イザヤは、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わっていくだろうか」との主のみ声に応えて「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と、神からの召命に応えております。その圧倒的な出会いと、罪の赦しの感謝を経験したイザヤは、この8節の言葉、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」との決意と召命に応える言葉を発せざるを得なかったのです。それこそ、見えない力に引きずられるように言って、応えたのです。
これが主の召命に応えることです。出発は主との出会いです。その人間を圧するほどの威厳と崇高さに触れた時に、人は罪の告白へと導かれ、召命を体験させられるのです。
召命、神からの召しに応えるのは、牧師や聖職者だけが行なうことではありません。誰もに神様からの召しは与えられています。それに応えることは神さまに用いられることですから、そこには罪の清めが必要です。ただ、これも誤解なきように、罪が赦されることは、一生清い存在になるということではありません。私たちは罪がなくなるのでなく、罪が赦された罪びとなのです。しかし神さまに用いていただくには、罪の赦しと清めが必要となります。そしてその時に、私たちは前に押し出されて「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」との決断へと促されるのです。神さまを求めましょう。その出会いが与えられるように祈りましょう。そして礼拝をしましょう。アーメン。感謝します。祈ります。
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