前夜式・葬儀告別式 説教

21日は前夜式、翌22日に葬儀・告別式を教会で行なった説教です。

2012年5月21日     前夜式  

イザヤ書43章1~4節    平林  稔

 

 

こんばんは、今日はこのようにしてM姉妹の通夜、前夜式にお集まり下さったことを感謝いたします。最初にも申し上げましたように、キリスト教においては多くのことを礼拝という形で行ないます。ですから、そこには、讃美歌があり、祈りがあり、聖書を読んで、それについて牧師がお話をさせていただきます。

 M姉妹は、去る5月20日の深夜に地上での生涯を終えられて、天のみ国へと帰っていかれました。私たち人間は神さまにあって造られ、その神さまの導きと支えによって、この地上で歩んでおります。旧約聖書に「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」というみ言葉があります。造り主それこそが、全知全能の父なる神さまであります。Mさんも、この教会を初期の時代から支えて来られましたY姉妹に誘われてこちらの教会に小学生の頃に通われていました。正に若い日に、造り主なる神さまと出会われ、歩まれたのです。そして喜びの日にも、悲しみの時にも、神さまと共に歩まれました。それが順境の時であれ、また逆境の時であれ、神さまはMさんの傍らにあって、その歩みを支え、共に歩んで下さったのです。そして今、父なる神さまの懐に帰って行かれたのです。それは神さまによって造られた者にとっては、何ものにも換えがたい恵みであり、幸いであります。

 先ほどお読みした聖書のみ言葉、これはイエス・キリストが弟子たちに向かって語った言葉です。この時、イエス・キリストは死に向かって十字架の道を歩んでおられました。ですから、この言葉はイエス・キリストが自分の死を意識して、弟子たちに伝えたものであります。「私の父の家には住まいがたくさんある」父の家、それは天のみ国であります。そこには住まいがたくさんある。「だから、あなたたちは心騒がさなくてもよい、先に私はあなたたちのところを去っていくが、それはあなたたちのための場所を備えに行くのだ。そしてわたしのいる、父の家にあなたがたを招きいれる、だから心配するに及ばない、心を騒がさないように」と言って下さっているのであります。

 愛する者の死、それは受け入れがたいものです。この地上では二度と会えないのですから、それは家族知人にとっては、大きな悲しみでありますから、受け入れがたい気持ちになることは当然です。いま、ご遺族の皆さんにとって、時は戻したい思いで張り裂けんばかりでいらっしゃることでしょう。残されましたお母さまをはじめ、ご親族の皆さんの時が、再びゆったりと悠久の時を刻み始めることを祈りたいと思います。

 Mさんの生涯は49年で終わりを迎えられました。お誕生日が来月の1日でいらっしゃいました。長寿のこの時代においては、早すぎる終わられ方だと言えます。中学高校をキリスト教主義女子校である清和学園で学ばれ、お友達がグランド通りにあります日本キリスト教団の高知教会にいらっしゃた関係で、その高知教会で少女時代を過ごされました。19801222日、この日は、お母さまとお姉さまがこの伊勢崎教会でバプテスマ(洗礼)を受けられた日と同じですが、お二人が受けられた6年後に高知教会で洗礼を受けられました。Mさんのご生涯は、病と闘われ、その病を身に負われながらの歩みであられましたが、大学も神戸にあります松陰女子学院大学に進まれ、赤十字のボランティアのお働きをされていたともお伺いしております。そのように、Mさんは、ずっと神さまとそしてイエスさまと共に歩まれて来られました。

 キリスト教におきましては、死は全ての終わりではありません。それはイエスさまの御許に招かれる事と捉えております。私どもの教会はプロテスタント教会ですが、カトリック教会では、帰天、天に帰るとおっしゃっています。ですから、死は不吉なものでも忌むべきものでもありません。そしてキリスト教では、試練をも、ただ厭うべきものとも捉えません。それはイエスさまが私たちの苦しみを全部ご存知でいて下さるからです。そしてその苦しみを共に苦しんで下さる、それがイエスさまの十字架であります。

 先ほどご一緒に讃美した讃美歌「いつくしみふかき」、この讃美歌は世界中で、そしてこの日本においても最もよく歌われている讃美歌の一つです。教会の礼拝においては言うまでもなく、キリスト教式の葬儀において、また、結婚式においてもよく歌われます。それは、この歌の中に、私たちの救い主であられるイエス・キリストというお方のことが示されているからです。

 この歌の歌詞を書いたのは、ジョゼフ・スクライヴェン(スクラビンとも音があてられていますが、)そのスクライヴェンという名の19世紀のアイルランド人です。彼の生涯は、この世的には全く恵まれないものでした。大学卒業後に、事業をしますが、結婚式を目前にしてその婚約者が湖の事故で亡くし、事業においても破産します。その後アイルランドからカナダに渡り、教鞭を取りながら、不幸な人や貧しい方たちへの奉仕活動にその生涯を献げました。そんな活動の中で出会った女性と婚約しますが、その彼女も結核を患い、帰らぬ人となるのです。彼は1度ならず2度までも愛する婚約者を失うのです。世をはかなみ、自分の人生と神を恨んでも仕方がないとも思えるのですが、彼はその中で、郷里のアイルランドで病に苦しむ母を慰めるために、この讃美歌を書いたのだと伝えられています。神を呪いたくなるほどの試練と苦悩を味わいつつ、彼は「苦しむ自分を励まし、力づけてくれたキリストを母に伝えたい」そんな思いがこの歌詞の中に込められています。

「いつくしみ深き 友なるイエスは つみとがうれいを とり去りたもう 心の嘆きを 包まず述べて などかは下(おろ)さぬ 負える重荷を 

 いつくしみ深き 友なるイエスは 我らの弱きを知りて 憐れむ

 悩み悲しみに 沈めるときも 祈りにこたえて 慰めたまわん

 いつくしみ深き 友なるイエスは 変わらぬ愛もて 導き給う

 世の友我らを捨て去る時も 祈りに応えて いたわりたまわん」

 この歌は日本の教会においては広く歌われている讃美歌ですから、教会で過ごされたMさんもこの讃美歌はご存知であり、歌われたことでしょう。イエスさまは、弱い者、苦しむ者、悲しむ者、世の友から捨てられたと感じる者の友となって一緒に歩んで下さるお方なのです。

 後の方でお読みした聖書は、旧約聖書のイザヤ書の言葉です。これは聖書における神さまの人間観が強く表われているとても有名な言葉です。最初に申し上げましたように、神さまが人間をお造りになりました。その神さまがおっしゃいます。「恐れるな、わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。」

 Mさんの生涯は、水の中を行かれるような時もおありになったでしょう、また火の中を歩くような試練の時もあられたことでしょう。贖うとは、代価を払って、買い取ることを意味します。どんな苦しい中を行く時であっても、神さまはMさんと共におられ、贖いを成就されて、Mさんを守られたのです。そしておっしゃいます。私の目には、あなたは高価で尊いのだ。私たちの人生がどんなものであれ、どんなに小さな、取るに足らないほどのものであれ、神さまは、そのために代価を払って贖い出して下さった。なんでそんなことをして下さるのか、それは、私たちが優れているからではない、何かが出来るからでもない、神さまの言いつけをよく聞いて守るからでもないのです。人の目から見たら、高価でもなく、尊くもないものに思えるものであっても、神さまの目からみれば、人はすべて高価で尊いと言うのです。そしておっしゃいます。「わたしはあなたを愛している」と。

 お祈りをします。

2012年5月22日  葬儀・告別式 

Ⅰコリント15章50~56節    平林  稔

    

 神さまの御名をほめたたえます。本日はこうしてM姉妹をお送りする葬りとお別れの時を持たせていただけることを心より感謝申し上げます。Mさんは、一昨日に49歳の地上での生涯を終えられ、天に召されました。49歳は余りにも早い終わられ方だと思われます。そしてそれは、私たち以上にご本人にとってもそう思ってらっしゃるだろうと思います。

 昨日も申しましたように、キリスト教にとっては、死は決して忌むべきものではありません。死はこの地上での歩みの終わりですが、それはこの世における私たちの務めから解き放たれることでもあります。この世での私たちの歩み、務めは決して楽しいこと、楽なことばかりではありません。生きるとは苦しむことであり、悩むことであるとも言えるほどです。私たちの国は昨年未曾有の大災害に見舞われました。そこには多くの人の死があり、多くの悲しみと苦悩を体験しました。どんな人間であっても、苦しみや悲しみ、試練と困難に直面させられます。その意味においては、死はそれらのことからの解放の時でもあるのです。

 Mさんのご生涯は、決して平たんなものではありませんでした。若くして患われたその病との戦いであられましたが、今はその病から解き放たれ、全ての悩み苦しみから解放されて、イエスさまの御許で安らわれておられることでしょう。Mさん本当にお疲れさまでした。ご苦労さまでした。どうぞ、イエスさまの御許でお安らぎ下さい。

 Mさんは、196261日に、神さまによって造られ、命が与えられ、この地上での歩みを始められました。昨日の前夜式でもお姉さまもお話し下さいましたが、Mさんは幼い頃から決して社交的な性格の方ではありませんでしたが、学ぶこといろんなことを知ることに熱心な方で、読書にも熱心な方でした。マヤ文明の古代文字のことを知られれば、それを解読するのだと励まれ、また野口英世に憧れて医者になることを願われたこともあられました。小学校の頃に、この教会へと導かれ、イエスさまと出会われました。キリスト教主義の清和学園で中高時代を過ごされ、グランド通りにあります日本キリスト教団の高知教会で洗礼を受けられ、イエスさまを救い主として後の人生を歩んでいかれました。

 先ほど、最初に詩編23編を読ませていただきました。これは、旧約の時代の一人の信仰者が自分自身の生涯を顧みて、主、これは神さまのことですが、その神さまがいつも共に居て下さることを感謝して詠んだものであります。神さまはその御心に従って造られた全ての人間と共に歩んで下さるお方です。それはご自分を信ずる者の近くにだけおられるような方ではないのです。天地万物を造り、人間をお造りになりご支配される神さまは、当の本人がそれを意識しているかどうかにかかわらず、全ての人の傍らに居て導いて下さるお方です。Mさんも神さまを信じ、そのお導きにあって、生涯を歩まれたことだと思います。

 この23編において、旧約の時代の詩人は、「わたしには何も欠けることがない」と言っています。彼の人生は、波風のない平穏なものだったのでしょうか。また、彼は全てのことを兼ね備えた人物だったのでしょうか。そうではありません。「死の陰の谷を行くときも」また「災いを恐れない」と言っていることからも、彼の進んだ道には「死の陰の谷」を通るような時もあったのでしょうし、また「災い」に遭遇することもあったのです。だから、彼の人生は一般的意味においては完全ではなかったのです。ただ、彼はそれらを恐れないと宣言するのです。それは、どうしてか、やせ我慢したのか、またとても忍耐強い人間であったのか。そうではありません。聖書においては、人間を羊にたとえた話が多数出てまいります。最も有名なものは、迷える小羊のたとえ話でしょう。イエスさまは、群れから外れ迷子になった羊を、どこまでも捜して下さるというやつです。この23編の詩人も、主なる神さまは羊飼いだと言っています。羊飼いは羊のために命を献げます。オオカミなどの敵から守るために、羊を守るために命をかけて戦います。その羊飼いがどんな時も私と共にいて下さると宣言しているのです。

 キリスト教はご利益宗教ではないとよく言われます。確かに一般的な意味でのご利益宗教とは一線を画す必要があるように思いますが、キリスト教でも、ご利益はあるのです。ただ、そのご利益は、災いがなくなることでも、死の陰の谷に遭遇しないことでもありません。それどころか、災いは起こるし、死の陰の谷を行くような試練に遭うこともあるのです。では、キリスト教の、聖書の説くご利益とは何でしょうか。それが、この詩人が述べている通り、「あなたがわたしと共にいて下さる」というご利益です。これがあるから、詩人は「わたしには何も欠けることがない」と述べたのです。

 Mさんの生涯の後半は、病との戦いであられました。病に苦しめられた歩みであられたのです。18歳でクリスチャンになられたMさんにも、病は襲ってきたのです。しかし、私たちキリスト者は、主が共にいて下さるという、最高のご利益が与えられているから、いや、それはクリスチャンとなった者の傍らにだけ、神さまがいて下さるのではありません。自分を信じ自分に従う者だけのそばに居られる、守られるような神さまではありません。その違いは、そのことを知っているか感じている、別な言い方をすれば信じるかどうかの違いです。Mさんも、そのイエスさまが羊である自分を守り、共にいて下さることを信じて、生涯をあゆまれたのではないかと思います。

 先ほど読ませていただいもう一つの聖書の言葉は、新約聖書のコリントの信徒への手紙一15章50~56節です。これは世の終わりの時にイエス・キリストが再臨、再びこの地上に来て下さる時のことが述べられている箇所です。4行目に「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません」とあります。これは一般的意味における死のことでありますが、死は単なる眠り、全ての終わりではないことを指しています。次にあるように「今とは異なる状態に変えられる、最後のラッパが鳴ると共に、死者は復活して朽ちない者とされる」というのです。「そのラッパが鳴ると死者は復活して朽ちない者とされる」ともあります。そしてこれらのことは次の言葉が実現したことだと述べます。11行目

「死は勝利にのみ込まれた。死よお前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」

聖書は何故、このように死に対して言えるのか、それはイエス・キリストさまが復活されたからです。ご存知のようにイエスさまは十字架で磔にされてその地上での歩みを終えられます。イエスさまに従っていった者にとってはそれは大きな悲しみであり、失望でありました。しかしそのイエスさまがその死から数えて三日目の朝に甦れた、復活されたと聖書は告げるのです。

 全ての人間に死はやってきます。それは誰もが避けることの出来ないものです。どんなに健康に気をつけようとも、この世においてどんなに名声を手にいれようとも、私たち人間は死から逃れることは出来ません。わたしたちは時には、その人生におけるあまりの苦しみのゆえに、辛さのために死を望むこともあります。しかし正常な神経においては、死は恐ろしいものであります。死んだらどうなるのか、この地上からいなくなる、それまでの歩みを続けることが出来なくなるのですから、人間は本能的に死を恐れます。死はすべての人間にとって恐怖の対象なのです。

 その死を乗り越えて下さったのが、イエス・キリストです。十字架から数えて三日目に死を乗り越えて甦って下さったのです。「死は勝利にのみ込まれた」のです。それゆえ、私は死がすべての終わりでないと信じております。「死んでしまえばそれまでよ」ではなく、また「死はいっかんの終わり」でもないのです。これは大きな希望であり、慰めです。Mさんは、その羊飼いなるイエスさまの守りのうちに歩まれたのです。

お祈りをしましょう。

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「『ふしぎなキリスト教』のヒット

 「キリスト教ブーム」と聞いても、ピンとこない方もあるかもしれないが、2004年の『ダ・ヴィンチ・コード』のヒット以降、出版界においては、「キリスト教の本は売れる」という状況が続いているようだ。単にキリスト教に関連したミステリー本が売れているのではない。「キリスト教の入門書」がヒットするというのだ。

 一般誌におけるキリスト教特集の火付け役になったのは、阪急コミュニケーションズ発行の『Pen』。2010年3月号の「キリスト教とは何か」は、初版11万部が2週間で完売し、“特集”を増補した同年5月の別冊(同誌としては異例の70頁超の特集号)も、13万部を完売している。新潮社も季刊誌『考える人』が、2010年春号で「はじめて読む聖書」と題した90頁の特集を組んでいるし、ビジネス誌『プレジデント』も、「『
ブッダ、聖書』の言葉」と題して特集している。書籍においても、同志社大神学部卒の佐藤優氏の『神学部とは何か』や独自の開設を加えた『「新約聖書ⅠⅡ」』はヒットしたし、人気の池上彰氏も『池澤彰の宗教がわかれば世界が見える』を刊行している。

 その延長線上にあるのが、今年の“新書大賞”を受賞した『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)である。発売一カ月で5万部が売れ、発行部数は現在30万部を突破しているという。同書は、大きな波紋を呼び、今年3月4日は、著者の二人(大澤真幸氏・橋爪大三郎氏)に加え、文芸評論家の高橋源一郎氏と新約学者の大貫隆氏とのシンポジウムが開かれた。

 実際、『ふしぎなキリスト教』の内容に関しては、著者の二人はいずれも著名な社会学者ではあるが、教会の“ハタ(端)”の側の人であることから、正確さという点においては、批判があるのは事実である。しかし、“ハタ”の側からの迫り方であるがゆえに、ハタにいる未信者のキリスト教に対しての知的欲求にこたえていることが、この本の人気につながっているようである。

 『ふしぎなキリスト教』人気と一連のブームは、私たち教会に、一つのチャレンジをつきつけている。そして、この現象に対して、私たち“ウチ(内)”側の教会は無頓着であってはならないと思う。ハタからの“挑戦状”に、どう応えるかが、教会に問われているのではないだろうか。

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福島フィールドワーク

今週8()10()に行なわれる、連盟の公害問題特別委員会の主催(東日本大震災被災地支援委員会協賛)による福島フィールドワークに参加する。放射能による健康を考慮し40歳以上の参加に制限されたが、最終的には部分参加を含め100名近くが参加することになったようである。当初の募集は50人であったから、関心の高さが伺われる。

 行程表を見ると、警戒区域までは当然入れないが、南相馬や飯館村などの線量の高い地区を訪問することからも、「訪問に関して」の持参品や心構えが送られてきた。単なる観光でないことは明らかだし、物見遊山でも好奇心を満たすためのツアーでも当然ない。

 現地でつぶやかれる小さな声を聞きたい。テレビを代表とするマスコミには、権力のある、大きな人たちの声があふれていて、本当にしんどく途方にくれている人の声はかき消されて聞こえないように思える。現地で出会う、小さな人、特に子どもや女性たち、高齢者の方たちの、小さくても重たい心の叫びに耳を傾けること。そこから始めることで、原発の本当の爪痕が見えるのではないか。是非お祈りいただければ感謝です。

 

 福島フィールドワーク(20125810)

5/ 8 日キ教団震災被災者センター代表 片岡謁也牧師「証し」

    佐藤栄佐久前福島県知事・管野典雄現飯館村村長  「講演」 等

5/ 9  避難地帯訪問(飯館村、南相馬、福島市渡利地区 他)

5/10 郡山市緑が丘仮設住宅(富岡町原発避難者)訪問・交流 等

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春なのに・・・

「パリのブローニュの森、フィレンツェのカシネ公園、ベルリンのティーアガルデン公園といっても、花の日曜日の上野にはかなわない。」 

明治時代に来日して、桜の美しさに魅せられたアメリカのジャーナリストで旅行作家だったE.R.シッドモアの言葉。 

彼女の提案を元に、当時の東京市からワシントン市へ3000本の桜が贈られることになり、100年前の一昨日、明治45年3月27日にシッドモアや大統領夫人も参列して植樹祭が行われたそうだ。 

シッドモアは、1884年(明治17年)頃に来日したと言われている。兄が横浜領事館に勤務していたこともあり、日本を身近に感じたのかもしれない。 

彼女の日本の印象は
「夢のパラダイスだ。最初に見える沖合いの緑の小島から、視界の最後にうつる絵のような小山のいただきまで、そろって美しい。人家はおもちゃのように見え、そこに住もう男女はお人形みたいだ。そしてこの人たちの生活マナーは清潔で愛らしく、美的感覚に富み、際立った特徴を持つ。」(『日本・人力車旅情』恩地光夫訳、有隣堂新書)。

日本は、ホントに美しい国だと思う。緑に覆われ、四季の移り変わりがあり・・・ 

そんな国を、放射能まみれの国にしたことの責任は甚大だ。今回の原発事故に関しては、環境破壊の側面が大きいことは言うまでもないことだが、国はこれを「放射線公害」と位置付ける必要があると思う。 

そんな中、先日ソウルで開かれた「核安全保障サミット」に出席した野田首相は「事故は自然災害に起因したが、得られた知見や教訓は原子力施設へのテロリストによる攻撃など“人為的な危害”への備えにも生かさねばならない」とコメントしたと伝えられている。 

何をかいわんやである。被害者救済や事故後の対応のお粗末さをここまで呈しておきながら、まだ「北朝鮮の脅威」を訴えようとしている姿勢には、憤りさえおぼえる。

 

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受難節

先週の22日から受難節に入りました。復活されたイースターまで、イエスさまが十字架にかかられたご受難を覚えて過ごす時です。ローマ・カトリック教会においては、四旬節と呼ばれています。受難節についての聖書の記述はありません。325年のニカイア公会議でイースターの日付等に関して決められた際に、主イエスの十字架の死をしのび、復活の喜びを祝うための準備の期間として、受難節は40日と定められました。ただ、イエスさまが復活された喜びと希望の日である日曜日は、受難節としてはカウントしませんので、実際の日数は46日間となります。

 聖書には、40日間にわたる出来事がいくつも記されています。①主イエスの荒れ野での誘惑と断食(マタイ42節他)②イスラエルの民と神との契約の仲立ちをした後のモーセの山籠もり(出エジプト2418)③ノアの洪水の期間(創世記717)等が、受難節の期間の根拠となったのでしょう。

 この受難節は、単に災難に気を付けようというような時ではありません。イエス・キリストの受難を心に刻み、悔い改めと自分の罪と向き合う時です。西欧やラテンアメリカの教会では、「受難節には肉を食べない」という習慣があります。リオのカーニヴァルとして有名なカーニヴァル、日本語では「謝肉祭」と訳されていますが、これは、受難節に入る前に、肉を思う存分食べて、お祭り騒ぎをしようというものです。また教派によっては、断食を重んじるところもあります。食は人の欲につながりますから、食を絶つことで、十字架のイエスさまへ悔い改めの行動とするのでしょう。

ただ、そういった行ないに意味が無いとは思いませんが、目に見える行動を起こすことが受難節の過ごし方の根本ではありません。私たちの犯した罪の身代わりに十字架で死んで下さったイエスさまのことを心に刻みつけることこそが、私たちが受難節に為すべき事柄であり、そこを通ってこそ、イースターの真の喜びに与れるのです。

 

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